どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
ひろさちやさんの「あるがままに」を読みました。
引用レビューします。
道風の蛙とイソップの狐
「道風と蛙」という有名な教訓話があります。道風というのは、平安の三蹟と言われた書の大家・小野道風のことです。
その道風が、ある雨の日に散歩をしていた。すると、蛙が柳の枝に飛びつこうとしている。でもなかなか届かない。道風はそれをじっと眺めていた。蛙が何回飛んだのか知りませんが、まあ、二十七回目にようやく柳の葉っぱに捕まることができた。畜生でもこんなに頑張るものだ、と道風は発奮して、平安の三蹟と言われる書の大家になった。
そういう教訓話が作られています。もっとも、この話が作られたのは江戸時代らしいので、道風に責任があるわけではありませんが、私はこの話を聞いて、バカバカしいな、と思ったのです。
「飛びついたところで、たかが柳の枝じゃないか。なぜ頑張るんだ」
私たちが一生懸命頑張って得られるものは、たかだか社長のポスト程度じゃありませんか。あるいは専務ぐらいにはなれるかもしれない。でもそれがようやくの果報でしょう。そのために粉骨砕身して、家を開けて子供をカギっ子にし、当然のように家の面倒は何にも見ないで、得られるものはそれだけです。それだったら頑張るな。苦しい時は負けてさっさと転職した方がはるかにいい。
遊戯三昧の境地で救う
仏教に、遊戯三昧という言葉があります。菩薩が人を救うときは、遊戯三昧の境地で、遊びの境地で救われる、というのです。
『観音経』のなかに「観音菩薩はこの娑婆世界において遊んでおられる」という言葉があります。観音様はお浄土の世界、極楽浄土に住んでおられるのですが、私たちのこの娑婆世界に遊びに来ておられる。
まさに仏様や菩薩様は、人を救われる時には、遊んでおられるのです。
「遊びに来ているなんてふざけるな、修行に来ていると言え」
そうおっしゃる人がおられるのですが、そうではないのです。
この"遊び"という言葉は日本人が大嫌いな言葉なのでしょうが、いい言葉です。
汗水たらして人を救う、というのは、救われる方が苦しくなってしまう。いやになってしまう。「もう勘弁してくれ、ほっといてくれ」と言いたくなる。
私たちが他人を救おうと思って、親切にやろうとすれば、「小さな親切、大きなお世話」ということがありますね。
だから救いに行く方は、病院に行く方は「遊戯三昧」で、つまり遊びの気持ちで行かなければならないんですね。それがわかっていない。頑張りが好きな日本人には、その遊びが全然わからないのです。
宗教教育がないから、まともな家庭が育たない
今ドイツあたりでは仕事が少なくなってきています。すると、どうしてみんなで仕事を分けていこうか、ひとつの仕事を半分こしていこう、というワークシェアリングの考え方が強く出てきています。
ところが今の日本では仕事が少なくなってくると、どうしたら仕事を自分のものにできるか、どうしたら自分が生き残れるか、そういう発想でしかものを考えません。そしてみんな「忙しい、忙しい」と言っている。
結局日本人は、一つの仕事で百円儲かる仕事が二つしかないとすると、百円ずつ分けて仕事をしようじゃないか、という発想ができず、儲けを八十円にダンピングしてでも二つとも仕事を取ろうという発想になっています。
まさに布施の発想が日常生活の中からなくなってきているのです。
「お互いに量は少なくなるけれども、半分こして一緒に食べた方がおいしい」
そういう喜びを忘れているのです。
どちらがいいか、そんなことはわからない
清涼院の大法眼和尚は、僧が昼食前に参禅のため部屋にやってきたとき、黙って簾を指された。そこで二人の僧が同じように簾を巻き上げた。ところが大法眼和尚は、「一人は良し。一人は駄目だ」と言われた。
たとえば一メートルの棒が二本あったとしましょう。
大法眼和尚は、きっと「一本は長い、一本は短い」と言うでしょうね。
一本の棒は、七十センチの棒と比較する。もう一本の棒は二メートルの棒と比較する。そう考えれば、大法眼和尚の言葉の意味がわかるでしょう。
結局世の中の様々な出来事は「縁」によって起こります。一本の棒はたまたま隣に七十センチの棒があった。もう一本の棒はたまたま二メートルの棒があった。そういう「縁」で、最初の棒は長い棒になりますし、あとの棒は短くなります。
私たちはその違いを、長い、短い、と呼んでいるにすぎません。ですから、棒を置き換えてしまえば、長い短いも逆になってしまう。私たちの物差しと言うのは、たかだかそんな物差しです。同じことをやっても、どちらかが良くて、どちらかが悪い、ということになるのです。
「いったい、どちらが長くてどちらが短いのか、どっちが良くてどっちが悪いのか、どっちだっていいじゃないか、そんなことは気にしなさんな」
この公案はそう言っているのです。
Q,仕事量が多く残業の毎日。その私を遊び呆けている上司が告げ口します。組合に訴えるべきでしょうか?
今のあるがままでいいんだ、今のあるがままが最高なんだ……。物事はそこから組み立てていかないと、上手くいくはずはないのです。上手くいかないのは、理想的な職場にすればうまくいくはずだ、と言うあなたの考え方が間違っているからです。そのことをわかって欲しいのです。
ところが、この人は、実は遊び呆けているその上司が羨ましくて仕方がないのです。本当は自分も遊びたい。もっともっと自分の時間を作りたい。ところが、あるべき理想の職場を考えると、そんなことはできない、そう思っているのです。上司への反発はその裏返しです。それは奴隷根性というものですよ。
どちらが本当の自分なのか、よく考えてみてください。そうすれば、自分もさっさと仕事をやめて上司のように遊ぶのが、本当の自分であることが分かると思います。
仕事の量が多すぎることが本当に困るのなら、定時で帰ればいいのです。会社の仕事の流れが滞ることを心配する前に、今のままでは、自分の心が滞っていて、まったく自由ではないことを先に心配すべきではありませんか?
定時で帰ると左遷されるのなら、それこそ左遷されてのんびり遊べばいい。もし、首だというのなら、首になればいいじゃありませんか。なぜそんなに頑張ろうとするのですか?なぜ、職場にこだわるのですか?
(中略)
まあ、何かと目障りなゴミを拾って職場を綺麗にしよう、というわけですね。しかし、たとえそのゴミを拾って綺麗にしても、すぐ次のゴミが落ちてくるに違いありません。あるいはそのゴミがあったおかげで目立たなかった小さなゴミがまた目に入ってきて、今度はそれを拾うことに執念を燃やすことになります。そんないたちごっこで、あなたは一生を過ごすつもりですか?
そんなゴミなんか気にするな。理想の職場など作ろうと思うな。今のあるがままを最高の舞台だと考えよ。それが仏教の考え方です。
それより、職場のゴミを気にしたり、理想の職場を作ろうとしたりする、あなたの心のゴミの方が問題なのです。
Q,何事にも我慢ができず、すぐ暴力をふるう夫。別れたいとも考えているのですが?
仮に質問者の女性に「三つの願いを叶えてあげる」と言ってみましょう。
「まず夫をまじめに働く人間にしてほしい」
すると夫は猛烈に働くようになり、ほとんど家にも帰ってこなくなった。ところが、相変わらず、お金を家に入れてくれない。
「もっと夫の収入を増やして、家に入れるようにしてください」
すると、収入はグンと増え、お金も家に入れてくれるようになったが、有り余るお金を手にした夫はどこかの女と浮気しちゃった。
「すみません、もう一度夫をもとのならず者にしてください」
そう頼むことになるのだろうと思うのです。
結局一つの問題を解決するたびに次々と新しい悩みが生まれてきて、際限がないでしょうね。
奴隷になった日本人
私たち日本人は今ほとんどの人が奴隷になっている、と言っていいでしょう。"社奴"という言葉があるように、会社の奴隷になっています。あるいは国家に縛りつけられて国家奴隷になっている。あるいは世間の奴隷になっている。金の奴隷になり、地位の奴隷になり、名誉の奴隷になり、また、子供の奴隷になり、親の奴隷になり、女房の奴隷になり、夫の奴隷になっている。
世間の物差しにもうがんじがらめに縛られています。
(中略)
私たちは今、偏差値だとか、肩書きとか、常に世間との比較や、世間の評価で物事を判断しようとします。でも、それは奴隷の評価です。
(中略)
お釈迦様は、仏法の教えを知る前に、まず「自由であれ」と言われたのです。
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