どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
有馬頼底さんの「禅が教えるほんものの生活力」を読みました。
引用レビューします。
器のあつかい
一列に並んで食堂に入り、常の通りに自席についた雲水たちは、持ってきた持鉢の包みを解いて、給仕をしてもらう準備を調えます。飯台看は、飯器(ごはん)、汁器(汁)、菜器(漬物)などを順に持ち出して、雲水一人一人の器に給仕をして回ります。
持鉢は五つ重なっていますが、、五つ全部使うことは稀で、普段はほとんど三つまで。器ごとに盛り付けるものが決まっていて、一番外側の大きいのが飯椀で向かって左側に置き、朝はここにお粥をいれます。二番目が味噌汁で、飯椀の右に。三番目が沢庵やおかずで、真ん中の少し先の方に置きます。四つめ、五つめを使うときには、さらに先の左右に置きますが、使わない場合は、右の脇に置いておきます。
現代では、一汁一菜というと、飯、汁、おかず一品と言われていますが、禅寺の食事は漬物を一菜として数えます。ですから、飯、汁、漬物で、一汁一菜の食事、ということになります。
持鉢
私たち禅僧や雲水の日常の食器は、黒漆塗りの五つ重ねの椀を用います。同じ禅宗でも形や大きさや扱いの作法は少しずつ異なって、呼び名も臨済宗では持鉢、黄檗宗では自鉢、曹洞宗では応量器と言います。
いずれにしても、大きさの順に重ねていくと、一番大きい椀のなかに五つがちょうどぴったりと納まるように作られています。茶道の懐石で用いる飯椀と汁椀は、この禅の持鉢をもとに作られていて、飯椀、汁椀、飯椀の蓋、汁椀の蓋と重ねていくと、同じようにすべて飯椀の中に納まる設計になっています。
食事五観文
一つには、功の多少を計り彼の来処を量る
(この食事が食膳に供されるまでのあらゆる労苦に感謝します)
二つには、己が徳行の全闕を忖って供に応ず
(自分の行いがこの食をいただくに値するものであるかどうかを顧みます)
三つには、心を防ぎ、過貪等を離るるを宗とす
(心を正しく保ち、誤った行いをしないよう、貪り、怒り、愚かさの三毒を持たないことを誓います)
四つには、正に良薬を事とするは形枯を療ぜんが為なり
(食とは良薬と心得、身体を養い、正しい健康を得るためにいただきます)
五つには、道業を成ぜんがため将にこの食を受くべし
(悟りの道を成し遂げるために、この食事をいただきます)
食器のかたづけ
持鉢は自分専用の食器ですから、これも各自の管理です。食事の度に持ち出して、食事を終えたら持ち帰ります。
食後の持鉢のかたづけは、禅宗でも宗派によってやり方に違いはありますが、食べ終えたその場で、自席に座したまま行うという点では同じです。
供給がお茶をもって回ってきたら、一番大きな飯椀に注いでもらい、椀を回しながら、大きいものから順に洗い浄めて、最後に箸も洗います。器は布巾で拭いて、一番小さいものから順に左の手のひらの上に伏せるようにしていって五つを重ねます。最初に並べるときも同じようにして五つ重ねた状態で左の手のひらに伏せて、一番外側の大きいものから返して並べていきます。
大きい椀のなかにすべての椀を重ねたら、菱形に置いた外包みの布の中央に載せます。四つの角を下から、次に上から畳んで、その上に箸袋に納めた箸をまっすぐに置きます。そうして右、左と畳み、さらにその上に、多いの布を重ねれば、これが抑えとなって、包みがバラけることはありません。
行脚
訪ねていいのは、昼から午後の三時まで。その間に伺って、玄関で「たのみましょうー」と声をかけます。和尚さんがおいでなら「どーれー」と出てきてくださる。けれど、たまによくわかっていないお寺などでは、奥さまとかお手伝いの人が「どちら様で、どのようなご用で?」と聞かれてしまったりもして。行脚の僧は必ずお泊めしなくてはいけない、というのが臨済宗の決まりなのですが、そういうところでは投宿をお願いしても、埒が空かないことが多いので、これはあかんな、と思ったら、「失礼いたしました」と言って、次のお寺を探すのが懸命です。こういうコツも、行脚を重ねるなかで、自然と体得していくわけですね。
ちゃんとわかったお寺に辿り着いて、「どうぞおあがりください」と言われたら、あがる前に必ず近所を回って、托鉢をします。自分の食い扶持は自分で用意してからあがらせていただく。そこで出していただいた洗足桶で足の汚れを落として、臨済録の序文を諳じます。それが臨済宗の修行僧という証で、それでほんまもんの坊さんか偽物かわかるんですね。
それから住職にお目にかかってご挨拶、ということで、相見の香を炊きます。焚くといっても、お寺にある線香を焚いていただいて、香料として百円ほどを納めさせていただくんです。で、一晩泊めていただいておいとまするときには、先様から五百円とか、千円とか、お布施をくださるようになっているんですね。最後は、山門のところで本堂に向かって般若心経一巻を唱えて退出致します。
庭詰
目指すお寺の道場の玄関で、床と土間との段差の間に渡してある式台という板に腰を掛けて、振り分け荷物の文庫を前に置き、その上に両手を揃えて低頭して、「たのみましょうー」と奥に向かって声をかけます。
しばらくするとようやく奥から「どーれー」という声が聞こえて、取り次ぎの僧が出てきます。ここで入門を希望していることを伝えるのですが、ただいま道場は満席、などという理由をつけて、けんもほろろに断られます。真に受けて、あ、そうですか、と立ち去ってしまったらいけません。どこに行っても、最初は必ず断られることになっているのです。
断られてもそのまま。夕方になって「ご投宿を」と声を掛けてもらえるまで、低頭の姿勢でひたすらじっと待つのです。投宿が許されたら玄関脇の旦過寮という部屋に通されて、壁に向かって坐禅をして一夜を過ごします。これで受け入れてもらえたわけではなく、翌朝には「ご自由にご出立を」と言われて、また玄関に逆戻りです。これを庭詰と言います。そうやって四日ほど庭詰を繰り返し、あとは三日ほど旦過寮のみで過ごす旦過詰を経て、ようやく僧堂を取り仕切る「知客」という係りとの面談となり、新到参堂ーー禅堂での参禅が許されます。こうして晴れて入門が認められる、という仕組みです。
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