どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
高橋龍太郎さんの「人生にはしなくてもいいことがいっぱいある」を読みました。
過去最高の付箋の数です。
引用していきます。
はじめに 人生にはしなくてもいいことがいっぱいある
一億総中流といわれて久しいですが、最近でこそほころびが見える、この結果平等主義は、先進国の中でもまれなほど成功しましたが、そのため多くのものを失ってきました。
その最大のものが、他人と違って生きることの恐怖を植え付けてしまったことです。そのため、一人ひとり違う個性であるはずなのに、皆と同じように生きるために、いろんなものをしょいこまなくてはならなかったのです。
なかでも、お金と情報にまつわるものは深刻です。
この二つの為に私たちはすべてを犠牲にして生きてこなくてはなりませんでした。 勉強が嫌いでも、就職のために大学まで行かねばならない。情報を得るためにTVは一日中つけっぱなしになっている。
こんなことをやっていては、生きていることは楽しくなくなってしまう。それどころか、つまらないものになってしまうでしょう。
なぜなら、それは自分が作り出した基準や価値ではなくて、他人が作り出した基準や価値にすぎないからです。
押しつけられた価値観で生きることは詰まらない。
お金は生活に必要な最低限あればいい。
それを稼げるだけの最低限の労働だけして、空いた時間は自分のしたいことだけしていたい。
きゅうくつな日々に見過ごされがちな、こころのシグナル
●喜びの根っこ
自分というものの「根っこの部分」は子どもの頃からの環境がものすごく大きいです。わかりやすい言い方をすれば、欲しいものは何でも買ってもらえるように、何でもかんでも、自分から努力しないで、目の前に流れてくるように、人との環境や制度がやってくるように育ったら、根っこなんてできません。
川の流れのように、ただ漂うだけ…という人間になってしまう。あふれる情報とかモノの中で、流れてしまうから、面白いものに鈍感になってしまう。結局生きている実感がなくて、つまらなくなっていってしまうんですね。
(中略)
では、「喜びの根っこ」を育てるにはどうしたらいいかといえば、子供の内にものを上げないことにつきます。少子化の影響もあってか、日本の親たちは、ねだられるとすぐ買ってあげる甘い親になってしまいました。
その結果、子供たちは欲しい物を我慢することができなくなってしまいました。買ってもらえばその一瞬は嬉しいかもしれませんが、長続きしません。
(中略)
では、もう大きくなって、喜びの根っこが感じられない人はどうしたらいいのでしょうか。
簡単です。子供の時の苦労をやり直せばいい。欲しいものがあっても、できるだけ我慢し続けること。痩せ我慢です。痩せ我慢こそ、人間の喜びをかき立てる最大の調味料なのです。
我慢して我慢して、それでも欲しかったら、初めて買う。その時は喜びが何倍かに変わっていることでしょう。
私の幼少期はなんでも親から買い与えられていたように思います。
ボーっとしていても先回りしてなんでもやってもらえる。
その結果、年齢に比して自分では何もできない人間になってしまった。
幸福感にも鈍感になっていたと思います。
生きている実感に乏しいというか。
この世の99%の人にとって、人生はサッカーのようなもの
日常に埋もれている人たちが、自分で仕掛けるにしろ、他の人からやってもらうにしろ、何らかの驚きを自分の生活の中にもたらすこと、こんな楽しいことはありません。
日常生活を、幸せじゃない、楽しくないと思っている人は、毎日が楽しみで満ち溢れていないと面白くないと思っていませんか。
スポーツに例えると、バスケットボールのように次から次へと毎日毎日、点が入らないと面白くないと思っているのです。
この世の99%の人にとっては、人生はサッカーのようなものですよ。ほとんど毎日が忍耐でしかない。忍耐で耐えて耐えて、日々を常々と繰り返す中に、一生に一度、シュートのチャンスがあるかないかぐらい。ほとんどいつも抑制されて、ずっと忍耐を強いられて、でもたまにはそういうチャンスがある。
そういう中でも、ドリブルを楽しめたり、一人、二人パスで抜いてみたりという喜びがあって、そういう演出を自分なりにして、あるいは人に仕掛けたりして、そういう能動的な動き方、それが多分人生の生活を楽しむ一番の基本形だと思うんです。人生を楽しめる人というのはそういう人でしょうね。
捨てなければ、見つからないもの
今つまらないと言っている人でも、楽しくするのはそんなに難しいことじゃないんです。
それは、結論に近付いちゃうけど、いろんなことを制限すればいい。制限していく中で、自分が手放していいもの、手放したくないものを、見極めて、手放していいいろんなものを自分の周りから切って行く。
どうして「あの人」のようになりたいの?
「私はネクラで、他の人とうまくいかなくて、お昼も一人で食べざるを得ない状況なんです…」
でも逆に、自分が行きたくもないようなレストランに、周りに気遣いして、いかなければならないとしたら、どうでしょう。それは楽しいことですか?他の人から孤立している自分の方が、むしろ自由度が高いのではないでしょうか。
表面的に群れて楽しそうにしている人も、実際には他の人に合わせることにキュウキュウとしていて、自分は「楽しそうに見えるけど本当は楽しくない」と思っているかもしれません。
付箋を貼った数は過去最高だったんですが、いざ引用しようとするとやっぱりいいか、と思って剥がしてしまいます。
読んだときは思うところがあったものの、後で見返してみるとそうでもなかったという感じです。
ただ、ミニマリスト系の本やダウンシフト系の本を読んで、こういう生き方をしてみたいけどできるだろうか、と弱気になっていた心を励ましてくれる本でした。
自分の生きたいように生きていいんだなと思いました。
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