やましたひでこ著「断捨離で日々是ごきげんに生きる知恵」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

やましたひでこさんの「断捨離で日々是ごきげんに生きる知恵」を読みました。

引用レビューしていきます。

目次

「断捨離」ってなに?

「断」=入ってくる不要・不適・不快なモノを断つ

「捨」=はびこり堆積した不要・不適・不快なモノを捨てる

「離」=とらわれた状態から、離れていく

 断捨離という言葉は聞いたことがありましたが、具体的な定義は知りませんでした。

不要・不適・不快を「断捨離」するというのがキーワードですね。

なぜ、モノを片づけられないか

 愛着があればあるほど、捨てられない。けれど、今までに一度も見返したことも、手に取ったこともなく、漫然と放置された状態。

 これを愛着といえるのかどうか。過去にとらわれた負の情といった”執着”といえなくもありません。

 これでは「今」を生きているのではなく、「過去」に生きていることになります。 

モノを溜め込む3タイプの私

 ひとり目は、「現実逃避型」と私が呼んでいる、「めんどくさがり」の自分。

 居心地の良くない家から、いつも逃げようとしている私。そして、逃げるための理由、正当化する理由を、探し出す。

(中略)

 ふたり目、「過去執着型」。「もったいない」派と呼んでもいいですね。

 思い出は、大切な財産であり宝。そして、思い出は、お金で取り戻すことはできない。

(中略)

三人目は、「未来不安型」。いつかそのうち使うかもしれない……と、漠然と曖昧と漫然のうちに、モノを保管、保存、放置する。 

(中略)

 モノが溜まる、モノを溜め込む、3タイプの私。これらに共通している点は、やはり「今」に焦点が合っていないということ。

 「今」という現実から逃げることなく、「過去」「未来」に逃げ場を探すことなく、「今」ときちんと向き合う。

「親の観念」から「自分の観念」へ

 他人の観念で生きているということは、基準軸が他人にあるということ。

 これは、自分の車でドライブしているのに、運転手は別にいるというのと同じ。多くの場合、その運転手が親、特に母親の場合が多いでしょう。

 自分で運転しなければ、自分が行きたいところに行けるはずもなく。

 親が運転手になってしまったら、結局苦しむのは自分自身です。自分の人生なのに、まるで操縦されているかのよう。それでは、人生は、とても虚しい物になってしまう。 

 毒親ってやつですね。

私も母親がなんでも先回りして世話を焼いて、母親の価値観を押し付けられてきました。

抜け出すために反抗期を迎えたわけですが、30過ぎた今も反抗期が終わりません。

責任は自分で取るしかない

 人の意見、社会の意見が、自分自身の始末や責任をとってくれるわけではありません。始末をし、責任をとるのは、あくまでも自分です。無責任な人の意見を採用するのではなく、自分で決めて自分で責任をとる。その方が清々しいですよね。 

 これはとてもいい考えだと思います。

他人の意見を聞いてその通りにしたところで、誰も責任をとってはくれません。

自分の責任でやるからには、口出ししないで欲しいと強く思います。

ああしろ、こうしろと押しつけがましい人が多すぎるんですよね。

「今」という時間の感覚は、人と場合によって異なる

 不安があればある程、未来に対して「今」の時間が伸びる。

 執着があればある程、過去に対して「今」の時間が伸びる。

 自分が持っているエネルギーを、過去や未来に分散させているとしたら、未来への不安や過去への執着ゆえに、今を冗漫にしているとしたら、それでは、活力の枯渇を招くばかり。

 「今」という時間は、本来は瞬間です。凝縮した今に、目いっぱい自分を注ぎ込んでいく。これこそが、活力溢れる充実な人生を送る秘訣なのかもしれません。 

 過去や未来に惑わされず今に全力を注ぎこめってことですね。

「捨」の辛さを味わえば、自然と「断」はできる

 「捨」を実行していく過程で、同時進行的に、入口が適正に機能してきます。つまり、「断」が正常になってくるのです。

 どんなモノであれ、どんなコトであれ、捨てることはそれなりに辛いこと。いえ、かなり辛い場合も。モノを捨てるときに味わう心地の悪さ、罪悪感なのでしょう。

 「もう、あの辛さを味わいたくない」という気持ちから、モノ取り込んでいくときに、自ずと慎重になっていくのです。 

私たちは三つの命に支えられている

 肉体的な命=行動する自分に必要なモノ

 社会的な命=思考する自分に適切なモノ

 精神的な命=感動する自分に快適なモノ

 自分に必要なモノとは、生存に不可欠なモノたち

 自分に適切なモノとは、社会活動をスムーズにしてくれるモノたち

 自分に快適なモノとは、感性を磨いてくれる美しい心の栄養となるモノたち

 不要・不適・不快なモノが溢れかえっている住まいや職場を、要・適・快なモノばかりに絞り込んでいく「断捨離」とは、まさに、この三つの命を磨いていくための、いわば側面からの応援。 

「あっても良し、なくても良し」の精神

 「捨」と「断」を繰り返し実行すれば、その結果として、「離」の世界が訪れます。

 「離」とは、モノへの執着から離れることですが、ゆとりある"自在”の空間にいる私を確保することということもできます。

 私は個人的には、執着をなくしたいということ自体が、執着ではないかと思っています。人間である以上、執着があるのはあたりまえ、執着を一切なくすことは不可能です。

 けれど、執着が私たちを苦しめるのも確かなこと。少しでも、それらを取り除けていければ、人生を幸せな方向に向かわせることは可能でしょう。

 「離」とは、「あっても良し、なくても良し」という考え方、感じ方です。

(中略)

 「断」と「捨」を繰り返し積んでいくと、最終的には自分にとって快適なモノ・コト・ヒトだけが残ります。

 そのような状態であれば、誰でも御機嫌で、愉しい。

(中略)

 こだわらない、とらわれない、ひっかからない、人生のスタンス。

「断捨離」はそんな人生を作り出していくのです。 

 断捨離とはモノなどの流れを自分でコントロールすることで、自分に心地いい境地に至るということでしょうか。

少しでも生きやすくなるように、私も自分の身の回りから世界を変えていこうと思いました。

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