月刊『望星』編の小さな暮らしの「ぜいたく」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

月刊『望星』編の小さな暮らしの「ぜいたく」を読みました。

ミニマリストという言葉ができる以前のミニマリストたちのエッセイ集です。

飛ばし読みですが、とても良いことが書かれていたので引用していきます。

目次

まえがき

 好きなもの、欲しいもの、便利なものは、何はともあれ手に入れて家や身のまわりに置き、にぎやかに華やかに暮らしたい…。

 そう考えて、欲望のおもむくままに家や家財や道具を求め、暮らしを広げてきたけれど、 そのあげくに自分がモノに縛られて、不自由になっていると感じたことはありませんか?

(中略)

 振り返れば、経済最優先の価値観のもと、消費を煽る宣伝文句と、果てのない物欲に煽られるまま「生活拡大」の道をひた走り、その結果として「負の財産」も抱え込んでしまったのが、これまでの私たちの生き方でした。

 自分自身にも、人の社会や地球環境にさえ、苦痛を与えるそんな暮らしは、もうこれからの時代にはそぐわない。政治も経済も先の見えない時代になって、高齢化や格差社会も本格化する中、庶民はもっと、きちんと足元を見て暮さなければ…。子育てを終え、定年を迎えるならばなおさらのこと、そうでなくても、人生のステージに合わせて、暮らし方を堅実に変えていかねば…。

(中略)

 自分にとって本当に大事なものを中心に、より自分らしく生きること。

 そのためにも「欲望制限の知恵」を身につけて、広げ過ぎた翼をたたんで、地に足をつけた、身の丈に合う暮らしをすること…。

 この本ではそうした「小さな暮らし」を心がけ、自ら実践している人たちと共に、私たちが今より少しでも「小さく暮らす」ための手がかりと、そこで生まれる「幸せ」や「ぜいたく」について考えてみました。

そうとしか生きられないから、この暮らし 呉智英

――しかしその金を、何をしてでも稼ぐというのではなく、呉さんは貧乏しながらでも一途に書を読み、思索して、それを表現することだけで、今日につながる道を求めてこられた。そう言う「生き方」の強さを感じるのですが。

 いや、 そんな風に言ってもらうのは嬉しいんですが、それは褒め過ぎでね、全然そうじゃないんですよ。私は自身の自己規定と言いますか、十五,六歳の時から自分は好きなことだけをやるって決めていたから、そのためには失うものもすごく多いけど、それでいいと思ってるんですね。これは非常に簡単に言えば「生き方」でもなんでもなくて、単なる片輪なんですよ。ここははっきり「片輪」と書いてほしいけど、つまりは片輪なんだからしょうがないんです、これは。

 それを知らない人はね、例えば巡回のサーカスが面白いと思うでしょ。でも面白いから自分でやってみたいという人はいないのと同じで、その片輪ぶりが見せものとして面白いと思われているだけなんです。簡単にいえば、私の場合は、そうした見せものとしてしか生きられないんですよ。そういう風に生まれついてるんです。だからお手本にはならないんだけど、そこのところをみんな根本的に誤解している。つまりね、世の中には二種類の人間がいて、社会の秩序内で生きている人が九割と、どうしてもその外周でしか生きられない人が一割ぐらいいるわけです。ヤクザだとか革命家だとか、芸術家だとか思想家だとか…。そんなのは本来、社会には要らないんですよ。真ん中で安定している人たちだけで十分なんですよ。でも現に社会の外周にそういう人間がいる。あるいは、やむを得ずそこにいるしかないマイノリティの存在ですね。そんな存在に憧れるって、それはおかしくないですか?

――そんなふうに自分の好きなことを追求したいという思いは、みんなにもあるんじゃないかと思うんですが。

 しかし、そういうことだけやってれば、それはやっぱり片輪ですよ。普通の人はそんなことは思わない。それよりはね、子供が生まれて七五三で喜んで、小学校の運動会で先生の制止もかまわずにビデオで追いかけるっていうのが、これが普通の姿ですよ。それで何が悪いんですか。それでいいじゃないですか。私は嫌だけど、それはたまたまそうしたことが嫌だったというだけなんですよ。この間書誌学者みたいな人が本に書いてたけど、子供より本が大事と思いたいとかね、太宰治が家庭の幸せは諸悪の根源だと言ったとか言うけど、そんな人は人口の1パーセントもいないでしょう。そういう人は普通に堅気で生きる欲望や家庭的に生きる欲望がない人ですから、やっぱり片輪なんですよ。普通とは違う別の欲望を持ってるわけだから、当然歪みがあるわけですね。だからものを知りたいとか、納得したいというだけで一生を棒に振ってもいいというのは、これは異常な人ですよ。自分で言うのもなんだけどね。

 私はここでいう片輪ですね。

結婚したいという願望も子供が欲しいとも思いません。

人の人生を背負う気にはなれないですし、子供をちゃんと育てられる自信がありません。

第一、私自分の食い扶持を稼ぐこともできずに生活保護受けてますからね。

これは普通じゃない、片輪です。

都市で「森の生活」を実践し続けて 久島弘

 春に入って、ちょっぴり給料がアップした。

 私は「やばい!」と直感した。

 右肩上がりの安定収入では、ローンが組めて、手持ちの現金以上の買い物ができてしまう。あれこれ家電製品を置いたり、好みのインテリアやカラーで室内を統一できたりもする。しかし、望み通りの暮らしを築けてしまったら、そしてローンが残ったら、結果として会社や仕事に縛られることになりはしまいか。収入や生活水準を維持せんがため働き続けるのか。そう考えると空恐ろしくなった。

 だったら答えは簡単だ。生活水準を上げなければいい。生きていくために最低必要な衣食住は何々で、幾らかかるのか。そのデータとノウハウさえ押さえておけば、いつだってゼロから再スタートを切れる。私は『アンチ上昇主義』を決意し、はだか電球をそのシンボルとした。

小さな暮らしで大きな自由を 犬田充

 「自分なり」ではなく「拡大した自己」への欲望が欲望される。今ではこうした「超」アメリカ風の大きな生活が日本でも目指され、一部の階層の当たり前の生活スタイルになってきている。

 社会全体がイケイケドンドンとなって、それまで手つかずだった領域、喜怒哀楽といった個人の感情の領域にまで、工業化と商業化の波が広がり始める。新しい技術革新と管理技術の導入によって社会の生産力が格段に上昇し、それに伴って生活様式がさらに快楽化へ向けて変わる。こうして消費社会のバロック化、快楽化のフェイズが自由化のフェイズの後に進行し始める。

 このフェイズは(とりわけ消費の量)が人生の楽しみの尺度であり、幸福の度合いになる。消費の楽しみを阻む一切は排除されなければならない。さらに消費の楽しみを人並みに楽しめないのはどこかおかしいからだ、となる。

(中略)

 アメリカ型消費社会、そして「超」アメリカ風の大きな生活には問題がある。今後特に問題なのは時間資源の枯渇と環境の制約である。この手の「大きな」生活には多くの資源エネルギーが必要であり、多消費になるほど実は多大の時間が必要になることがとかく忘れられる。消費の為にいよいよ忙しく働き、生産性を追求しなければならなくなる。

 たんに欲望を肥大させ、それを満たすためだけに、貴重な人生の大半を費やしてしまうのは情けない。

 大原扁理さんの20代で隠居がネットニュースになったとき、某巨大掲示板では「働け」とか「年金納めろ」とか異常な人、という風な反応が多かったんですよ。

どう生きるかはその人の勝手ですし、それで結婚や子供を諦めてればその勝手の報いは受けてるわけですよね。普通でない人生を送るって言う。

なのに、赤の他人がどう生きろって口出しするのが私は理解できません。

他人の人生に口出しする権利なんて誰にもないと思うんですけど。

こう書くと少子高齢化どうすんだといわれそうですが、そんなのは政治家が考えることで、一個人が問題意識を持たなきゃ解決できないなんて状態ではもう手遅れなんじゃないかとも思うんですよね。

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