枡野俊明著「手放す力 生きるのがこんなに楽になる禅的シンプル発想」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

枡野俊明さんの「手放す力 生きるのがこんなに楽になる禅的シンプル発想」を読みました。

少ないですが、引用レビューしていきます。

目次

「何もない」ところに「安らぎ」が生まれる

 生活の便利さを得るためには、洗濯機を得なければならない。食器洗い機を、高性能掃除機を、車を、パソコンを、スマートフォンを得なければならない、と。

 それと同じ理屈で、心の安らぎ、シンプルでゆったりできる生活を手に入れるのにも、何かを得なければならないと考えます。

 しかしそれは、逆ではないぜしょうか。

 安らぎを得たければ、むしろ「手放す」のがよいのです。癒し系の商品を買ってくるのではなく、必要のないモノを極力、我が家から捨て去るのがよいのです。

 「禅の庭」をイメージしてください。

 「禅の庭」の特徴は、ご存じのとおり、枯山水です。

 あるのは石と砂だけ、余計なモノは一切ありません。しかし石の配置と、砂の模様によって深山幽谷、清流のせせらぎ、世界、宇宙といった物まで表現しています。

 京都の禅寺で庭を眺めるとき、心がフーッと深く安らいでいくのを感じた、という経験を語る人が多いのですが、その秘密は、「禅の庭」には余計なモノが一切ないからです。

 「何かがある」からではなく、「何もない」から、広いイメージが喚起させられ、深い世界へと、心が解き放たれていきます。

 「ない」世界の解放感が、安らぎを癒しをもたらしてくれるのです。 

得るために「手放す」生き方がある

 「本来無一物、無一物中無尽蔵」

 禅語です。

 人は裸で生まれ出てきます。

 携帯電話を片手に持って生まれてくるわけではありません。

 「本来無一物」。何も持っていませんが、生命力にあふれた泣き声を上げて、オギャーと生まれます。

 「無尽蔵」。何一つ持っていないからこそ、無尽蔵の可能性を秘めています。ありとあらゆる可能性があります。だから、何も持たないことを嘆く必要はないし、怖れる心配もないのです。 

あえて飛び込めば、恐怖心が消える

 沢庵和尚と剣豪の柳生宗矩との間の面白いエピソードを記しておきます。

 雨が降り出しました。沢庵は宗矩に、「この雨でも濡れない極意はあるだろうか」と問いかけます。

 すると宗矩は刀を抜いて振り回し始めました。「雨粒が自分を濡らす前に、雨粒をめった切りにすればいい」というのが、宗矩の理屈です。

 それに対して沢庵は、「あなたの極意はその程度のものか。いくら世に並びない剣豪とはいえ、重い刀をいつまでも振り回していられるものでもあるまい。そのうち腕が動かなくなる。ならば何もせず、ただ雨の中に立ちつくしていればいいのだ」と答えます。と答えます。

 「それでは雨に濡れるではないか」と宗矩が反論すると、「雨に濡れてしまえば、もはや雨に濡れる心配はない」と沢庵は教えます。

 この言葉に、宗矩は深く感銘します。 

劣等感は「こだわり」から生まれる

 柳生新陰流の柳生宗矩が、あるとき、沢庵和尚に「剣の極意はなにか」と尋ねます。

 沢庵和尚、答えて曰く、「相手の面を打ってやろう。胴を抜いてやろう、と考えてはいけない」と。

 「面を、胴を」と、こだわると、他に隙があっても見落とす――これが沢庵の教えでした。

 だから無心となって相手と対峙しなさい。無心であればこそ、おのずから相手の隙が見えてくるのだ、と。 

考えてもしょうがないことは、考えない

 禅では、「一息に生きる」と言います。 

「今、この時に、全力を傾注していきなさい」という教えです。

 行く末を不安に思わない。過ぎたことを、いつまでも悔やんでもしょうがない。未来も過去も、心から手放す。

 ひとつ息をする、この瞬間に全力を傾注していきなさい。余計な思いに煩わされてはいけません…というのです。

 心の断捨離ですね。

「貪」「じん」「癡」の三毒を手放す

 人の心には三つの毒があります。

「貪・じん・癡」といいます。

「貪」とは、「欲をむさぼること」です。

「じん」とは、「怒りの感情」です。

「癡」とは、「知恵がなく、愚かなこと」です。 

 仏教では、これを三毒と呼んでいます。

 人の欲にはきりがありません。

 知り合いから、自分の持っていない車を自慢げに見せびらかされると、自分も欲しくなります。百万円の車を買えば、次には二百万円の車が欲しくなります。

 船も欲しくなる、自家用飛行機も欲しくなる、宇宙ロケットにも乗りたくなります。

 月を一周して帰還しても、まだ欲は満たされません。

 欲求不満から、今度は怒りの感情が芽生えてきます。

 「自分が宇宙ロケットに乗れないのは、職場の上司が悪いからだ」と、怒りをぶちまけます。

 そんな風にして、欲の為に人は「愚か」になり下がっていくわけです。

 ここは、「貪・じん・癡」を、手放すしかありません。それほど難しくありません。

●自分にないモノを求めない

●今あるモノを大切にする

そう心がけているだけで、心は欲の毒の感染から免れることができます。

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