どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
斎藤茂太さんの『「捨てる」「片づける」で人生が楽になる』を読みました。
これは現代のミニマリストの規範となっているようなことが書かれています。
2006年に書かれた本です。
面白かったです。
引用レビューしていきます。
まえがき
たしかにモノが豊かになったことは私たちの生活を便利にしたが、心から、ゆとり、余裕といったものを奪ってゆくようである。
さて、いかにストレスなく、モノと上手に付き合ってゆくか。
そのコツをここで、いくつか箇条書きしておこう。
- 不要なモノ、思い入れのないモノは捨てる…ストレスが軽減される
- 捨てることを「もったいない」とは思わない…モノを大切にする心が養われる
- 書類で散らかり放題になった仕事机を整理する…それだけで人間的に成長する
- 虚栄心からモノを増やさない…自分らしい暮らし方を楽しめるようになる
- 「増やす」より「減らす」に重点を置く…モノへの愛着が生まれる
- モノの扱い方について「家庭憲法」を作る…家が快適なくつろぎの場となる
ところで人との付き合いでは絶対に許されないことが、モノとの付き合いでは許される。それは「捨てる」ということだ。
捨てなければ、根本問題は解決しない
整理したモノはまた収納から溢れだし、ひとまとめにしたモノはあちこちで崩れ始める。
いらないモノは、捨てる。これをしなければ結局は、元の木阿弥となるだけだ。
あえていえば、こうである。
「捨てて、整理する」
「捨てて、片づける」
「捨てて、まとめる」
「あとで後悔することになりそう」だから捨てられない
使いもせず、そこらに投げ出していたモノに何年か後、愛着を感じるようになるのかといえば、それはないだろうと思う。邪魔なモノは、やはりいつまでたっても邪魔なモノなのだ。
(中略)
身の回りにいらないモノばかりが散乱し、右往左往し、バタバタし、イライラし、ストレスを溜め込む。そんな慌ただしい落ち着きのない生活から、今まで無縁でいられたことを考えれば、あきらめもつく。
後悔のひとつや、ふたつ、どうってことない。
「捨てる力」は「あきらめる力」にあり
身辺からいらないモノを一掃し快適な気分で暮らしてゆくために大切な心構えは、「あきらめる」ことではないかと思う。
「あとで後悔するのではないか」といらないモノをいつまでも取っておこうと思うのは、いわば「あきらめ力」が足りないのだ。
後悔することになるかもしれない。しかし後悔するかどうかなんて、後になってみなければわからない。確実に後悔するとわかっていればいいのである。だが、わからないのなら、上手に諦めて、捨ててしまった方が気持ちがスッキリする。
もし後悔することになったら、同じモノを新しく買い直せばいいではないか。先々のことで、あれこれ心を悩ませないこと。
基準を作っておこう。
- 役に立っているモノは捨てない
- 思い入れのあるものは捨てない
- 役にも立っておらず、思い入れもないモノは、捨てる
これで、どうか。
「もったいない」で「ありがた迷惑」になってはならない
さて、「もったいないから捨てたくない」という気持ちはわかるが、「もったいない」にもいろいろと諸問題があるということを述べてきた。
まとめておこう。
- 「もったいない」は、徹底的にモノを使いきる技術、使いきって捨てる技術である。捨てないで、取っておく技術ではない。
- モノは使わないでいると品質が悪くなってゆく。モノを大切に思うのであれば「使うのは、もったいない」などと考えず、どんどん使いこんでゆく方がよい。
- 使いこむことで、モノへの愛着が生まれる。次々と新しいモノに買い替えてゆくよりも、たとえボロボロガタガタのものであっても、愛着のあるモノに囲まれて暮らす方が、人間幸せである。
- 「捨てるのは、もったいない」でリサイクル業者を探す。インターネットなどで、自分で売ろうと思う。貰ってくれる人を探す。しかしそれは面倒なことだし、時にありがた迷惑にもなりやすいことを、覚えておこう。
- 「もったいない」は、自分のできる範囲で実践しよう。できないことは、しようと思わないこと。そのときは、潔く捨てること。
- 自分にできないことをしようと思うと、「もったいない」でモノを疎かにすることになる。無理は禁物。
ブランド物を買った、私の大失敗
上手な買い物のコツを一言でまとめるとしたら、私なら「マイペース」と言っておきたい。どういうことかというと、
- 自分が本心から欲しいと思うモノだけを買う
- 流行や、人の言動には惑わされない
- 広告の魅力のある言葉に振り回されない
あくまでも自分は自分のやり方で行くぞ、ということだ。
「なんとなく」はダメ、想像力を働かせて買う
人に勧められて、何も考えずに買う。
人が持っているモノが羨ましいというだけで、何も考えずに買う。
これがいけない。もっと想像力を働かせよ、だ。
そこでちょっと、その洋服を着た自分の姿を想像してみればよかった。それほど勉強好きでもない自分が、果たして仕事に疲れて家に帰って参考書を手にできるかどうか思い描いてみればよかった。我が家に清水焼の壺を置く場所があるかどうか思いを巡らせてみればよかったのだ。
狭い家に暮らすと、買い物上手になる?
私たちは、収納スペースがたくさんあれば、それだけモノは片づくのだと考えがちだ。
はたして、そううまくゆくのだろうか。
広い収納スペースがあるものだから、安心していらないモノをどんどんそこへ放り込んでゆく。だからかえってモノが溜まってゆく、ということもありはしないか。
(中略)
収納スペースは「安心できないくらい」狭い方が、よろしい。モノの置き場がないぐらいの方が、本当に必要なモノを厳選して買うようになるだろうから、である。だから不要なモノが一方的に溜まってゆくこともないだろうから、だ。
あえて収納スペースの狭い家で暮らす、これも買い物上手になるコツではないか。
ローンの支払いが終わらないうちに、新しいモノを買うな
まずは、こんなジョークを紹介しておこう。
一家のご主人が嬉しそうに、というよりもほっとした顔で、
「ローンで購入したこの家具だけど、やっと来月に払い終えることができるんだよ」
それを聞いた奥さん、瞳を輝かせながら、
「そう、それはよかったわ。これでやっとこの家具を捨てて、新しいモノに買い替えることができるのね」
と、なおもローンの支払いに汲々とする生活が続くのかと、ご主人はうんざり。
ところで私は、こういう夫婦であればまだいい、健全な経済感覚を持った夫婦ではないか、と思うのだ。
というのも世の中には、先のローンの支払いが終わらないうちに新しいモノ新しいモノと買い増してゆく人だっているからだ。
「得る」より「捨てる」ことに幸せ感がある
長い人生の中で「得る」ことよりも「捨てる」ことの方が、幸せな心で暮らしてゆくためには大切であると気づくのは、さて何歳ぐらいからだろうか。
人生にはターニングポイントがあるのだ。
いま「得る」ことに夢中になっている、みなさん。あれも欲しい、これも欲しい、あれも揃えておきたいと、購買意欲に燃えている、みなさん。わずかなモノしかない暮らしなんて惨めだ、モノはたくさんあった方が幸せだと思い込んでいる、みなさん。みなさんもいずれ、たくさんのモノに囲まれているよりも、必要最低限の、わずかなモノをいとおしんでゆく暮らしの方が、ずっと幸せなことに気付き始める。
とはいえ、そんなに年老いてからの話ではない。
早い人は二十代から。三十代後半から、ぽつぽつ。四十代になれば、もう少しはっきりと。そして五十代になればもう、否応なく意識せざるを得なくなる。
日本人は「捨てる」ことで幸せな暮らしを得てきた
ところで私は、いまなお吉田兼好や鴨長明、西行や芭蕉といった古典的な人物の生き方に、現代の日本人が強い関心と憧れを抱くのを、面白いことだと思ってきた。
いずれの人たちも、いわば隠居的な人生を送った人である。
地位も財産も、家財道具も何もかもすべて捨て去って、一方は山野の侘び住まい、一方は漂泊の旅に出た人でもある。
仕事の失敗をくよくよ悩んだり、将来のことを心配したり、プレッシャーに押しつぶされそうになったり、人間関係に振り回される暮らしなどとは、まったく無縁であった人たちだ。
「得る」ことで幸せを追求した人たちではない。
「捨てる」ことで自分らしい、気ままな、自由奔放な幸せを得ようとした人たち。
きっと伝統的な日本人の幸福感といったものが、これらの人たちの人生に集約されているのだろう。
さばさばした暮らし方が日本人らしい
余白を大きく取ることが、日本の絵画の特徴だろう。一方西洋の絵画は画面の中に所狭しと、雑多なモノを描き込もうとする。
暮らし方もそうである。日本人は余白を大切にしてきた。家の中に、あれこれとモノを持ちこまない。茶室のような生活空間を、本来日本人は愛してきた。
もっとすっきりとした、さばさばした、飄々とした生き方が、日本人らしい。それこそ兼好や長明、西行や芭蕉といった生き方である。
欧米人も実はそのことを、よく知っている。だから自分たちの生活習慣を真似ばかりして、日本人らしくないことばかりして奔走する日本人が、なんだか自分らしくない生き方をしているように見えてきて皮肉ったり笑ったりしたくなるのではないか。
日本人はもともと、そう躍起になって、よく働いたり、モノを買い集めてきたりする国民性ではないのだろう。
また日本人自身、そういう生き方を「自分らしくない」と感じているところもある。
だからこそモノに恵まれた暮らしをしながら、何か一つ満足感を得られないでいる。意識調査で「今の暮らしに満足している」「今幸福だと思っている」と胸を張って答えることができないでいるのではないか。
精神科医として仕事をしていると、今、うつ病に悩む人たちが増加傾向にある、また自殺者の数も一向に減る様子がないことを憂えながら、もっと日本人本来の、日本人らしい生き方に戻った方がいいのではないかとも思うのだ。
それは地位を得ること、権力を得ること、財産を得ること、豊かな暮らしを得ること、モノを得ることの為に、あくせくする生き方ではない。
欧米人の説くような成功法則的な生き方、ナンバーワンになるための生き方ではない。
いわば徒然草や方丈記で説かれているような暮らし方。わずかなモノをいとおしみながら、気ままに、自由に暮らしてゆく生き方だ。
「心の健康」のためにも、その方がいいように思うのである。
旅する時のように、わずかなモノで暮らす
旅に持って行けるのは、わずかなものである。せいぜいボストンバッグひとつかふたつに入るモノぐらい、しかし旅先で不自由を感じることはない。
モノがないからといって、旅を楽しめないわけでもない。
(中略)
日常生活の中でも、そう考えてみたらどうか。身の回りにあるのは必要最低限のモノだけで、よろしい。それ以外のモノは、なくてよろしい。
その代わり、これも旅をしているときと同じように、見るモノ、聞くこと、知ることに、素直に感動する気持ちを持つこと。好奇心を旺盛にしておくこと。未知へチャレンジすること。人との出会いを喜ぶこと。友人の輪を広げること。同行者との親睦をはかること。
そういうことを忘れなければ、わずかなモノしかなかったとしても、旅することも、そして生きることも、十分に楽しめるのだ。
捨てられない人は、うつを疑え
ところで、「捨てられない人」に、うつ病の患者さんがいる。
理由は、ふたつあるようだ。
- 過去への執着が強いこと
- 心身のパワー不足
「過去への執着」というのは、うつの患者さんによく見られる特徴である。別れた恋人への執着、亡くなった人への執着、今は地方の子会社へ出向しているが、かつて本社の花形部署で活躍していた頃への執着、過去のポストへの執着、そしてそういった過去の思い出につながるモノへの執着である。
なぜそうのように過去にばかり目を向けようとするのかといえば、未来へ向かってずんずん突き進んでゆくパワーがなくなっているからだ。心身が疲れ切り、前に向かって歩んでゆけなくなっている。
ムダな体験をしてこそ、ホンモノがわかる
洋服も靴もたくさん買ってきて、クローゼットに並べておきたい。テレビだって冷蔵庫だって、何台も揃えておきたい。駐車場には二台三台、自動車を並べておきたい。家じゅうモノで溢れた生活を送りたい、と、そういった暮らしに憧れを持っていてもいい。
しかし、そうやって買い集めてきたモノから、自分にとってのホンモノを見つけ出してほしいのだ。
そしてホンモノが見つかったら、あとの不要なモノは徐々に捨ててゆき、減らしてゆくこと。家の中に広々とした、しかし充実した空間を作ってゆくこと。
「得る」人生から「捨てる」人生へ、このターニングポイントをうまく発見し、暮らし方を上手に転換できた人は後半生を幸せな気持ちで生きてゆけるだろうと思う。
幸せに暮らすために、モノとどう付き合ってゆくか
最後に、まとめておく。
- 「得る」ことよりも「捨てる」ことの方が、幸せに暮らすためには大切なのだとわかってくる時期がある。それが人生のターニングポイントだ。
- 若いうちには「得る」ことを享受する生活を楽しむことも大切だ。しかし、そういう生活の中から、自分にとっての「最愛のモノ」を見つけ出す努力をしてみよう。
- 旅をするときのように、ボストンバッグひとつに詰め込んだ必要最低限のモノでもって、日常生活を楽しんでみる工夫をしてみよう。わずかなモノしかなくても、工夫次第で暮らしは楽しくなる。
- 日常生活には本当に必要になるモノは、実はそれほど多くはない。わずかなモノで十分である。その、わずかなモノをいとおしむことで幸福感が生まれる。
- 思い出のモノは、箱ひとつかふたつにまとめよう。それに収まりきらないモノは、捨ててもかまわない。思い出のモノもわずかな方が、良い思い出となる。
- 日本人は、もともと「捨てる」ことに幸福感を見出してきた民族だ。「得る」ことに一生懸命になるのは、心にストレスを溜め込むことにつながり、かえって生きることを辛くする。
「モノのぜいたく」を追い求めても、満足感は得られない
「ぜいたく」にも、二通りあるのではないか。
「心のぜいたく」と「物質的なぜいたく」だ。いわば「モノのぜいたく」である。
まず最初に、ある大手スーパーの創業者が、こんな意味のことを述べていた。私自身、賛同している。
そこでここでは多少私自身の言葉も付け加えて書くが、お許し願いたい。
私たちの生活は、ずいぶん豊かになった。家には、贅沢なモノがあふれている。家の中にあるモノのぜいたくさだけならば、たぶんアメリカの平均的な家庭を上回っているように思える。
また、お金の使い方を見ても、かなりぜいたくな水準にあると言っていい。ぱっぱと気前良く、よく使う。収入が増え、贅沢に回せるようになったのである。
しかし、本当のぜいたくかといえば、首をかしげたくなる部分もある。
普段の日常生活を送る、私たちの心の中はどうか。
豊かさを実感できているか。
必ずしもそうではないだろう。
日常生活が豊かにならなければ、決して生活水準が上がったとはいえない。
たしかに日本人の平均収入は増えたのだろうが、平均収入が増えれば生活水準が上がったということにはならない。
要は生活の仕方だ。お金の使い方である。その発想そのものを変える必要があるのではないか。
今の収入の範囲内で、幾らでも生活水準を上げることは可能だ。
具体的に言おう。
節約できることはもっと節約して、バカンスに回す。
自己投資の為に使う。
より合理的でスマートな贅肉のとれた生活を心がける、ということだ。
「お金があるけど、豊かではない」という矛盾
実は欲張りもケチも同じなのである。欲張りが「足ることを知らない」人ならば、ケチもまた「足ることを知らない」人である。
いくらリストラをやっても、まだ不安が残る、満足できない。だから「やりすぎ」としか思われないほど、リストラを断行してしまう。「そこまでやるか」としか思えないほど、貸し渋りをする。財布のひもを締める。しかし、そこまでやらなければ心配で心配でしょうがないのだ。「足ることを知らない」からである。
かねがね私は、今の日本人はある種の躁鬱状態にあると考えている。
バブル期は躁状態だった。イケイケドンドンである。
それがバブルがはじけて、今度はうつ状態に入った。あのどケチぶりは、うつ状態の現れであると言っていい。
この「イケイケドンドン」と「イクナ、イクナ」が、極端すぎるほど極端なのだ。バランス感覚が取れていない。
戦後の高度経済成長期も、先のバブル期同様に、日本人は躁状態だった。テレビ、洗濯機、冷蔵庫が三種の神器と呼ばれ、飛ぶように売れていった時代である。
そしてオイルショックだ。今度はうつ状態となって、極端なまでに財布のひもを固くした。
戦前もそうである。あの時代も日本人は躁状態でイケイケドンドンで戦争を拡大していった。そして敗戦で一気にうつ状態である。
どうも日本の歴史は、うつ状態と躁状態を交互に繰り返す歴史のようである。
お金の価値がなくなったのが「今」
子どもの頃、道端で百円札を拾ったことがある。そのとき、今考えればおかしいほど私の手はガクガク、足はブルブル震えたのを覚えている。
それだけ、お金の持つ価値観が高かったのだ。
貨幣価値が当時と違うと言われるかもしれないが、道端に百円、いや千円でもいい、落ちていたのを拾ったところで、今の子供は何とも思わないだろう。「汚いからそんなの拾っちゃだめ」と子どもを叱るお母さんもいそうである。
それだけモノやお金の持つ価値観が低くなった。
だが、これは奇妙なことだが、モノやお金の持つ価値観が低くなった今の時代、モノやお金への、人の尽きない欲望だけはますます膨らんでゆくばかりだ。
これはいったい、どうしたことか。モノやお金にそれほど価値観を感じられないのであれば、そう躍起になってお金儲けをしなくてもいいではないか。モノを買い集めなくてもいいではないか、と思う。
しかし、言い換えれば、だからいくらお金を溜め込んでも、モノを買い揃えても、ちっとも満足感も感動もないのだと言える。もともと価値観のないモノを溜め込んでいるのだから。
(中略)
- お金は「モノのぜいたく」のみならず、「心のぜいたく」にも使おう。趣味や遊びの為、自己の人間的な成長の為に、だ。「モノのぜいたく」「心のぜいたく」のバランスのとれた生活が、幸せな暮らしの基本だ。
- 若いうちはモノに頓着しないこと。自由という「心のぜいたく」を思う存分に味わおう。その経験が社会人になってから現れる。
- 欲張りもケチも「足るを知らない」という意味では同じ。だから、お金はあるけれど、贅沢なモノにたくさん恵まれているけれど、豊かさを実感することができないのだ。
- 今あるお金で、今あるモノで満足するために、もっと知恵や工夫を働かせよう。そんな知恵や工夫が、自分の力で生きている充実感を生み出す。
- モノやお金に感謝する気持ちを養おう。そのためにはモノやお金への際限もない欲望を少しセーブして見ることである。
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