髙坂勝著「次の時代を、先に生きる」を読みました

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次の時代を、先に生きる
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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

髙坂勝さんの「次の時代を、先に生きる」を読みました。

カフェラテ淹れました。高坂勝さんの「次の時代を、先に生きる」あと少しで読み終わります。後半の説教臭さが読みづらかったですけどもう少しです。過去最高の付箋の数です。これは引用大変そうです。

目次

 はじめに

 「日本は経済成長できずにいますが、どうしたらよいでしょうか?」

 15年くらい前のあるテレビ番組で、こう質問されたヨアン・ノルゴー氏。幸福度が常に上位にあるデンマークに置いて、かの国を自然エネルギー社会に導いたのが市民科学者の彼だ。普通の政治家や専門家なら「労働生産性をあげよ」「さらに投資すれば」「イノベーションで」、そして「もっと頑張れば」という言葉を返すだろう。しかし彼は、その決まり文句を裏切って、皮肉とユーモアを込めながら、飄々と返した。

 「もうそろそろ頑張るのをやめたら、日本人は幸せになりますよ!」

 世界一貧しい大統領といわれる南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領。2012年のブラジル・リオ会議でのスピーチはあまりにも有名だ。彼のメッセージはいたってシンプル。

 「私たちは発展するためでなく、幸せになるために生まれてきた」

 「成長を求めるな、幸せを求めよう!」

 世間では、経済成長すれば幸せに帰結すると思わされている。経済成長すればすべてが解決すると思い込まされている。経済成長しないから様々な問題が生まれていると思い込まされている。しかし、ノルゴー氏とムヒカ氏の発言はまるで逆だ。成長を目指すから幸せになれないのだと。 

(中略)

 もう気付いた方がいい。そろそろ勘付いた方がいい。経済成長などできない、と。経済成長など必要ない、と。経済成長を目指すからすべての不幸が生まれている、と。

 経済成長を目指した結果、格差が広がった。望もうが、望まなかろうが、低収入時代に突入した。今の経済成長システムにしがみつこうとするほど、ますますジリ貧になる。だから、もうそろそろ、次の時代を先に生きてしまえ。それが幸せへの近道だ。

半農半「organic bar」

 ナリワイのbarは、成長しない、大きくならない、が一貫した経営ポリシー。つまりは「必要以上に儲けない」「売上が一定額を超えたら下げる」。少々のお客さんが来てくれれば成り立つナリワイ設計。ゆえに、ずっと黒字で、潰れようがない。世間一般の成長を目指すビジネスデザインとは一線を画すre designだ。過分な欲をかかないから、足るを知って満足する。そしてナリワイはサステイナブルになる。

(中略)

 基本的に、掃除から料理からサーブから洗い物から会計まですべて一人ぼっちでやる。誰かの手を必要としないので人件費がかからない。売り上げが悪い時、人件費の出費が一番の痛手になる。だから一人でできる範囲の小さな店にした。そして一人でできるオペレーションデザインを築いてきた。内装も外装も自分で手掛け、業者さんには一切頼まなかった。だから壊れても自分で修復できる。確定申告も自分でやる。ゆえに利益率が良い。世界のトヨタより良い。すべて自分でやってすべて責任を負う。政治でも行政でも経済界でも大きくなりすぎて責任所在が曖昧な現代社会にあって、ミニマムに自分の選択と責任で何でもできるのは気分がいい。

都心にはない匝瑳市の魅力

 人は街にいれば食べ物などの必需品に限らず、嗜好品から無駄なモノまで無自覚に消費させられる。生きるためには「買う」という選択肢しかない。これではカネを稼いでも財布の底が抜けているようなものだし、カネがなければ惨めだ。欲をかき立てられるし、人から比較されるし、ストレス解消も必要。

 まんまと「生きること=消費者」に貶められる。人は「The 消費者」として生きてゆくほかないのか?そのために必死で働かねばならないのか?空は狭く、建物の隙間からしか太陽や月は見えないし、星も少ない。満天の星空は入場料を払うプラネタリウムにしかない。 

自分のできることを増やす

 お米も研げない、炒め物に油を引くことも知らなかった。「できない」「知らない」「情けない」。それらをちょっとずつクリアするために、それまでの人生で溜め込んできたモノたちをどんどん手放した。「便利」「快適」「速度」を備えたモノに囲まれているから、人は何もしなくなった。というより、できなくなった。加えて言えば、モノの為に過分に働くハメになるし、所有が多いほど身軽さを失う。手ぶらに近付くほど、「できない」「知らない」「情けない」が「できる」「知ってる」「何とかなる」に変化していった。 

成長という強迫観念

 巷では、成長、成長とうるさい。

 経済成長率やら、GDPやら、売上目標やら、毎日毎日いたるところで拡大を目指す数字が、働く人を追い立てる。数字を上げるために、勝ち残るんだ、強みを持つんだ、資格を取らねば、弱点を克服せよ、と迫ってくる。そして当然、働く人は何かをもっと売るために、ありとあらゆる手段を使って消費者を煽りたてる。

 一方、働く時間が終わってプライベートになると、そのツケが自分に回ってくる。アレ買え、コレ買え!と雑誌も広告もラジオもテレビもネットも、プライベートな人たちを追い立てる。劣等感を煽られて、誰かと比較されて、君はまだ足りないって!人にお金を使わせて、「The 消費者」にしようとする。

 それで、モノを、サービスを、買う。結果、より買うために、より働かねばならなくなる。いくら買っても、いくら働いても、永遠の満足など得られない。自分の時間と心を擦り減らす方がはるかに多い。それは同時に、己の命を擦り減らしていると言ってもいい。

 なんのための成長か。モノを増やすため?何かを永遠に買い続けるため?そのために君は生まれてきたのか。それでも成長したい?活躍して立身出世したい?将来の安定や安心の為?勝ち残るため?親や大人や世間がそういうから?向上心は大切だが、比べている限り、克服しようとする限り…君は辛い。 

できないことを目指す苦痛

 会社から与えられる目標は、常に前年比アップ。でももう、年を追うごとに人口が減ってゆく時代に入った。市場は飽和しているともいわれる。世界中探しても新たな市場は限られてきた。もう革新的な何かが生まれて爆発的に売れることなんてことはそうないだろう。格差が広がり、中間所得層はどんどん減っている。低所得層はモノを買いこむことなんてできない。

 モノを最小限しか持たない「ミニマリスト」的な暮らしが注目を浴びている。分かち合い思考で、非・画一性を好み、社会貢献が好きな「ミレニアルズ」という若い世代が台頭している。本来は購買意欲が一番高いと言われる20代や30代が「ゆとり世代」「さとり世代」で、持家や自動車なども含めて、購買意欲が少ない。こうした傾向は環境の時代においては喜ばしいことだ。そういう時代に、なぜ前年対比アップができるのか?できないことを目指すのか?しなくていいことを目指すのか? 

消費されない生き方へ

 あまり買わない生き方。あまり持たない生き方。ゆえにあまり働かなくていい。楽しい有意義な仕事だけに絞れる。すると時間が生まれる。時間があれば大抵のモノは自分で作れて楽しい。語り合ってもいい。愛し合ってもいい。昼寝してもいい。ぼーっとしてもいい。学んでもいい。稼ぎたいならもっと働いてもいい。

 しかしなかなか稼ぐのが難しい時代だ。稼ぐために心身をすり減らしてしまう人が多い。だから「稼がない自由」こそ選択肢として必要なんだ。

成長しないという選択肢

もう経済成長に準じた成長はしなくても大丈夫。繰り返して書こう。良い大学を目指さねばならない、そうでなければ負け組になる、なんてことはない。良い企業に就職しなければならない、そうでなければ負け組になる、なんてことはない。もっとお金が欲しい、もっと贅沢がしたい、そんな気持ちはだれにでもある。それを目指すのも悪くない。しかし、それを得るための労働で健康や大切な時間を擦り減らしてしまっては意味がない。せっかく贅沢を得たとしても、それを満喫できる時間と健康な心身がないのなら間抜けである。疲弊しきった心身を束の間の贅沢で癒しているなんてことがあるなら、マヌケ話に拍車がかかる。お金を得ることと、それに伴う犠牲を天秤にかけて着地点を定めた方が現実的で、夢が叶いやすい。成長したい自由、成長しないも自由。

「ナリワイ」+「自給」を組み合わせる

 ナリワイについては説明が必要だろう。『ナリワイをつくる』著者の伊藤洋志さんの説明をお借りすると、「ナリワイとは、個人で元手が少なく多少の訓練で始められて、やればやるほど頭と体が鍛えられて技が身につき、ついでに仲間が増える仕事のこと」。とても的を射た説明である。難しく考える必要はない。個人自営業に準じたものと考えればいい。誰かの指示に従って業務を遂行して給料をもらう仕事でなく、自らの考えと判断でビジネスをすることだ。「小商い」という言葉も好きだ。個人自営業でも小商いでもナリワイでも、言葉は何でもいい。専業でなくとも、小さいビジネスを複数組み合わせてもいい。要は会社から給料をもらう仕事ではない、ということが肝である。 

田舎は課題先進地

 田舎には仕事がないじゃないか、と思われるかもしれない。せっかく自分の判断で田舎に行くのだから、仕事を与えてもらう発想から抜けて、仕事を作り出す決断をすればいい。まさにナリワイなのである。実は田舎ほど課題先進地だ。課題が多いほど、小さなビジネスのチャンスがあるともいえる。また、インターネットを駆使すれば都会と変わらず世界を市場にすることだって可能だ。ナリワイがアナログだろうと最先端だろうと、田舎でもビジネスの可能性は広がっている。

(中略)

 ナリワイは1つでなくてよい。いくつでも楽しいことをすればよい。そうすれば、それぞれの収入が小さくても、それぞれが補完し合ってリスクが減り、それぞれによって飽きが来ず、それぞれの刺激で楽しくなり、それぞれの連鎖でさらに新しいナリワイが生まれる可能性も秘めるからだ。

モノに時間を取られないために

 より多くモノを持ちたい、と願っているわけではないだろうが、結果として家がモノだらけ、という方が多いかもしれない。そして買い集めたモノは、いずれ使わなくなる。たまに使う、いつか使う、と理由づけして捨てられない。

 でもテレビ見ながらラジオ聴けないし、ラジオ聴きながら音楽聴けないし、音楽に集中しながらパソコンできないし、パソコンしながらランニングマシーンで走れないし、ランニングマシーンで走りながら自転車乗れないし、自転車乗りながら車は運転できない。しかし買い揃えるモノたちの支払いは大きくなり、それを払うためにもっと働かねばならない。働く時間が多くなれば、家にいる時間は少なくなるので、買い揃えたモノたちを存分に使う時間も少なくなる。一つ一つのモノを使う時間は限りなく短くなるか、まったく使わなくなる。片づけや掃除も大変だ。片づけたモノがどこだか行方不明になることもあるだろう。いよいよモノを置く場所がなくなれば、大きい家に引っ越す。より大きな住まいを安く、と考えれば、職場から更に遠い郊外になる。モノを置くスペースが増えたが、モノたちを使う時間がさらに減るのは、通勤時間が長くなったからだろうか。スペースはモノが増えるたびに埋まり限界が来る。かくしていずれはゴミとして捨てる羽目になる。もしくはゴミ屋敷になる。 

モノを減らして増えるもの

 モノを減らし始めると、上記と逆のことが起きる。家の中にたくさんの空きスペースが生まれる。モノが見つからないということもないだろう。「手放せない」「絶対に必要だ」と思って残したモノをこよなく愛してたっぷり使える空間と時間が生まれてくる。大きな家とそれに伴う家賃は必要なくなり、小さな家賃の小さな家ですっきり暮らせる。モノたちへの支払いが少なくなる分、働く量を減らせる。するとさらに時間が生まれる。もっと大切なモノをこよなく愛してたっぷり使えるようになる。お金も余るようになる。掃除もラク。自ずと、虫も出にくい。ゴミも出にくい。買い物頻度も減り、ますます時間持ちになってゆく。

 やりたい事や夢はお金があるからできる、とも限らない。時間があればできることがほとんどだ。お金があっても時間がなければ、やりたいことをする時間すらないわけだから。モノを減らすと時間が増すのだ。『ぼくたちに、もうモノは必要ない。』著者の佐々木典士氏は「モノを減らすことは、生き直すための助走」と言った。持ちものが少ないほど、小回りが利く。捨てるものがそもそもなく執着もなくなり、違う生き方へシフトしやすい。夜逃げだってあっという間にできるかもしれない。 

暮らしを捉え直すことから始めよう

 人が暮らすのに、モノは思いのほか必要ない。必要以上にモノを持っているから生きることががんじがらめになる。消費や所有が美徳などという時代は終わった。減らし、分かち合う、という時代に変換してゆくのだ。

 ITの進化により、人は様々な恩恵と危険を受けるようになった。情報を集約し時間を節約することができるようになった反面、時間と情報を奪われるようにもなったし、現場で手足を動かすことが遠のいたのかもしれない。そこを承知してITを使い分ける必要があるモノの、モノを減らすにはとても便利である。音楽も映像も写真も原稿も計算も記録もすべてデジタルに集約でき、場所に制約されない。仕事も暮らしもシンプルにできる。

 部屋に本棚はいらなくなった。CDラックはいらなくなった。ステレオもテレビもラジオもいらなくなった。少々の電気が電子機器まで届けば、世界とつながりながら自分をシンプル化できる。そうだ、モノを減らそう。

(中略)

 人生を方向転換したいとき、新しいことをするとき、モノや契約が邪魔をする。腰が重くなり二の足を踏ませる。モノが少ないと引っ越し、移住、新たなチャレンジが、軽やかにできてラクである。

スペースの価値を捉え直そう

 都会には空間がない。人口密度が高く、1人1人の空間が少ない。仕事に行く際の満員電車は尋常でない。揉みくちゃになりながらも正気を保つべく、わずかな空間で読書やスマートフォンを扱って他人と自分の気配を消す。土地がないから都会の地価はつり上がる。人が暮らしたり仕事するスペースを確保すべく、ビルやマンションを空高く高層に伸ばす。狭いスペースでも用が済むように、省略化や効率化や利便性が進んだ一面もあるだろう。今では、ノートパソコン1台、もしくはスマートフォン1台で、情報関連のモノはすべてこなせ、より狭い空間で充実した暮らしができるようになった。 ミニマリストとして暮らしをシンプル化して、小さな空間で都会に暮らすのも悪くない。

生き方の選択肢は増えていい

 すべてをできなくてもいい。どれかだけでもいい。少しずつでもいい。いずれにせよ、都市型全量消費スタイルの暮らしからしたら、大幅に生活コストが減る。一人暮らしなら10万円、夫婦で15万円、子どもが数人いても20万円の低収入で何とかなる。場合によってはへそくりもできる。もう少しあれば、毎月ごとに預貯金もできるだろう。この額はre lifeを実践した私の知人たちに聞いてまわって得た実数字だ。準じた書籍も巷に出てきている。例えば『農的な生活がおもしろい 年収200万円で豊かに暮らす!』(牧野篤・著)、『年収150万円で僕らは自由に生きていく』(イケダハヤト・著)、『年収90万円で東京ハッピーライフ』(大原扁理・著)など。

 低収入でも自由に安心して幸せに生きることができる。暮らしを変えた人々をたくさん見てきて実感していることだ。都会に来て何かに気付き、田舎にUターンやIターンする人はたくさんいても、田舎に行って暮らしてみて、やっぱり都会に戻る人は稀である。これが事実だ。re lifeを覚えてしまったら、都会ですべてを消費させられ続ける暮らしなんてできなくなる。消費生活は生きることに無駄が多すぎると気づいてしまったのだ。

 re lifeの中で、いくらあれば家計が成り立つのか、計算するとよい。それを私は「ライフスタイル基準金額」と名付けている。人によっては「ミニマムライフコスト」とも言う。言葉はどっちでもいい。いくらあれば家計が成り立つのか。これを頭に入れておけば、その後のre workを考えやすくなる。次章で述べたいと思う。

 さて、みんながこうした暮らしを選ぶようにはならない。なる必要もない。モノが大好きで溜め込むのが好きならそれもいい。外食が生き甲斐ならそれもいい。食べ物は買えばいいと思う人がいて当然だ。土や虫が嫌いだから農作業なんて向かない人もいるだろう。都会好きがいたっていい。しかしre lifeできる人がある程度増えて、見える化してきたら、暮らし方、生き方の選択肢が増える。一定数re lifeしたなら、GDPの6割を占める個人消費が減るかもしれない。経済界と政界は怒るだろう。しかしGDPを上げようとすればするほど、競争がさらに激しくなり、それなのにGDPはさして上がらず、格差が広がり、貧困層の数が圧倒的に増える。という現実が待っている。GDPなど上がらずとも、社会は成り立つし、むしろ、経済成長至上主義と違う選択肢を有する方が、人々の健康で文化的な暮らしが実現可能なのだ。価値観を変えるためにも、私はGDPを下げたいのである。GDPを下げたのに、幸せな人が増えることを示したいのである。 

ひと月にいくらで満足できる?

 re lifeのライフスタイル基準金額の設計に向けて、より具体的に「減らす」ことを記そう。

1)心の歪みを削る

  • 見えや世間体のために使っているお金は削る→他人の目は気にせず世間並みで充分
  • ストレス解消の買い物を削る→買い物自体でのストレス解消をやめる
  • 流行ファッションの追及をやめる→ベーシックで自分らしい服を数種類で充分
  • 固定電話/ファックス/モバイル通信/ルーター/プロバイダー/音響(ステレオやプレイヤーなど)/録音機/カメラ/映像/テレビ/時計/腕時計/新聞…モバイル通信機、スマートフォン、ノートPCに集約できる

2) 機能が重複するモノを集約する 3)自宅になくても外で可能になるモノを減らす

  • プリンター/スキャナー→コンビニで可能
  • 自動車やバイク→レンタカーやカーシェアやレンタルバイク

4)健康に配慮すれば要らないモノetc

常識を一歩一歩抜けていく楽しさ

 大切なのは、世間一般の常識と思わされている生活方法を手放しても、生活の質を保つ、もしくは高める選択肢を知っていること、そして、その方向へ進もうとするベクトルだ。

 間違っても、自分や家族のこだわりや趣味嗜好まで減らすことはない。カメラが趣味や職業の人が、昨日の高いカメラを手放してスマートフォンのカメラに集約するなど、もってのほか。こだわりや趣味嗜好はむしろ大切にした方が良いに決まっていて、それこそがre workへの新たな可能性にだってなることもある。冷蔵庫を減らすと言って、家族が代替の手段に移行できるかも大切だ。反対を押し切って実行して、家族を手放す羽目にならないように!

ミニマムな暮らしは、ストレスもミニマム

 ちなみに、これはre life , re workした後に実感することになるだろうが、re life , re workするとストレスがミニマムになる。するとストレス解消のための消費がなくなる。ストレス解消の飲み屋通いやカラオケ通いもなくなる。お酒が量から質に変わる。酔うまで飲んでいた酒が、ほろ酔いで満足になる。世の中に翻弄され、誰かの指示で行動せねばならず、人からの評価や人との比較や、マスコミ情報からの劣等感や、そうしたものが少なくなり、自分で決めて自分で行動することが増え、自己肯定感が大きくなるからだ。

自分の好きな仕事 ナリワイの見つけ方。

  1. 好き・得意型ナリワイ
  2. 夢型ナリワイ
  3. 経験延長線上型ナリワイ
  4. 問題解決型ナリワイ
  5. ミッション型ナリワイ
  6. 場所(環境)型ナリワイ
  7. 組み合わせ型ナリワイ

具体的な数字を、まず見つける

 売上に上限を設けること。要は売り上げが上限を超えてしまったら上限内に戻すこと。売上を下げる工夫や努力もするわけだ。上限を設け、それ以上は求めないことのメリット、これが重要だ。メリットをいくつか挙げる。 

  1. 売上拡大を手放すので、過分な設備投資をせずに済み、開業コストを抑えられる。
  2. 開業コストが小さくなる分、起業ハードルが低くなる。
  3. 売上がミニマムでいいので、開業から軌道に乗るまでの期間が短くなる。
  4. 人を雇わないで済む、もしくは雇ったとしても最少人数で済む。売上が取れないときの一番のコストリスクは人件費。そのリスクを減らすことになる。
  5. 1人もしくは最少人数でできうることは限られるので、限定商売になる。
  6. 限定商売は希少価値が高まるので価格決定権を世間に委ねないで済むし、値下げ競争や相場に左右されない。
  7. 限定商売だからこそ、過程が丁寧になり、その物語は付加価値となる。
  8. 限定商売だからこそ、ターゲットを絞り、少ない顧客と向き合い、個別対応やイレギュラー対応も可能になり、信頼につながり、顧客化の安定になる。
  9. 限定商売だからこそ、そこに集中し、より良いモノへと昇華させる原動力になる。
  10. 限定商売=少量商売ゆえ、顧客動向や売り上げ動向に対して機敏に小回りが利く。
  11. 限定商売は供給より需要が大きくなりやすく、常に売り上げが上限近くで安定する。
  12. 限定商売は売上規模が小さいゆえに、同分野の競合他社や大手企業にライバル視されたり、標的にされたり、買収されたりするリスクが少ない。
  13. 限定商売だからこそ、需要に応えられない分を同業他社に譲ることができる。売上を分かち合うことを意味し、過当競争でなく共存共栄につながる。
  14. 大きくなる必然性がないのだから、新規参入者や他社にノウハウを分かち合うことができるし、そうした信頼は巡り巡って自分のナリワイに回帰してきて、安定した売り上げに寄与する。
  15. 売上に向けてのプレッシャーが少ない分だけストレスは少なく、他社との分かち合いでギスギスやセコセコがなくなり、おおらかでいられる。

ナリワイまでの道のり

  1. ひと月のライフスタイル基準金額をざっくり算定する
  2. どこで、どうやって、どんなターゲットに売るのか想定する
  3. ライフスタイル基準金額を得るのに、いくらで、いくつ売ればいいのか算定する
  4. ひと月の労働日数を決める
  5. 1日単位にした時、いくつ売っていくらの売上になればいいのか算定する
  6. 開業からいつまでに軌道に乗せるか、理想に辿り着くゴールの期限を設定する
  7. ゴールに至るまでの段階的ステップにも期限を設定する
  8. 想定した段階的ステップの期限までにその目標をクリアすべく、行動や実践を始める
  9. ブログなどで積極的に発信する
  10. 顧客や取引先につながるようなネットワークを広げるために行動する
  11. 完璧に行き着いていなくても、ナリワイを小さく始めてしまう 

このままでは、追い詰められてゆく

 そんなモノでしか経済成長が見込めない中、どうしたら、経済界や投資家は利益を確保すればいいのか。それは、中間所得層から富を吸い取り、さらに低所得層からも富を吸い取ることだ。お金がないと選挙に勝てない政治家たちは、献金や裏金で経済界のいいなりになり、巨大企業と投機筋が儲かるカラクリ、法人税や金融取引の負担を軽くするカラクリに書き換えてゆく。すると国の財源が足りなくなるから、教育と福祉がどんどんカットされる。人々には自己責任で生きろ、と強いる。さらに足りなくなって消費税を、という。しかし、その消費税が教育や福祉に使われる保証がなく、またもや経済成長の為のお題目に使われてしまう。こうして、人々はジリ貧になり、格差が広がってゆく。 

税収は?財源はどうなる?

 誰もが、脱消費へ、田園回帰へ、ナリワイへ、自給へ、となったら税収はどうなるんだ?と心配する人がいる。社会福祉の財源はどうするんだ?と心配する人がいる。心配ご無用。誰もがそうはならない。モノが好きな人、都市が好きな人、勤め人を選ぶ人、自給の労力など嫌いな人、人は千差万別でいい。全員に同じ暮らしや働き方を強要することなどできないし、する必要もない。望む人が目指せばいいだけだ。望む人の中でも「0」か「100」ということでなく、部分的で良いし、混合的で良いし、選択肢が開かれていればいいのである。 

目指すべきは選択肢がたくさんある社会

 誰もがそうする必要はない。企業に勤める人がいていい。お金を儲けたい人がいていい。大きくなりたい企業があっていい。しかし、成長や拡大を強要されて他に選択肢がない今の経済社会にオカシイと言いたいのだ。違う選択でも豊かに生きられることを伝えたいのだ。選択肢があれば、人生そのものをどちらかに選んでもいいし、人生の折々でどちらかに変えてもいい。

 選択肢がたくさんある世の中こそ、自由であり、豊かであり、個性が認め合える世の中だと思う。 

次の時代を、先に生きる

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