どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
枡野俊明さんの「不安の9割は消せる」を読みました。
かなり飛ばし飛ばしですが、ざっと読みました。
引用レビューします。
たった一つ手放す
もしも今あなたが、欲望の虜になっていたとしたら、そしてそこから逃れたいと少しでも感じているとしたら、あなたの欲望の1%を捨ててみてください。たった1%でいいですから、思い切って手放してみてください。
具体的な話をしましょう。たとえばバッグが大好きで、たくさんのバッグを持っている女性がいます。クローゼットの中には100個ものバッグが眠っています。お気に入りのモノもあれば、衝動買いしてしまったモノもある。せっかく買ったのに、一度も使っていないモノもあります。こんなにたくさん持っているのに、店に綺麗なバッグが置かれていれば、またそれが欲しくなってしまう。貪りの欲望が顔を出し、身の丈以上のモノを次々とカードで買ってしまう。心に満足感が持てるのは、買ってから家に帰るまでの時間だけです。家に帰ってクローゼットにしまってしまえば、そこで満足感は一気に薄れていきます。まさに欲望という幽霊に支配された行動だと思います。
そんな状態から、どうすれば抜け出すことができるのか。もしも100個のバッグを持っているとしたら、その1%である1個だけを手放してみることです。10個を手放すことはとても難しいことです。10%のモノを減らすことは、実は至難の業なのです。しかし、1%だけならできるでしょう。100個の中で1個だけを手放す。お気に入りのモノを手放す必要はありません。100個あれば、一つくらいは「これだったら、誰かにあげてもいいかな」と思えるものがあるはずです。それを一つ手放してください。
絶対に手放すことはできないと自分自身で信じ込んでいる。バッグは自分にとって命の次に大事だと思い込んでいる。絶対に手放すことなどできないと。でも、思い切って1個を手放すことで、それまでの執着心は薄れていきます。これまでは絶対に手放せないと思っていたのですが、やってみればできるものだ。少しだけ手放したところで、実は自分の生活や生き方には何の変化もない。それどころか、1個を手放すことで、その他にも不要なモノが目に入ってきます。いかに自分が無駄な買い物をしていたか。そのことに気づかされるのです。そして、やがて自らが気づくことになります。「もう、これ以上のバッグは必要ないな」と。このとき心は解き放たれ、物欲という執着から自由になることができるのです。
「現金で買う」と決めてみる
自らの清規を順守することで、気づくことが必ずあります。たとえば物欲というものがある。この物欲に対して自らの清規を課してみてはいかがでしょう。店に入ると、どうしても時計が欲しくなった。時計はいくつも持っているのに、とにかくその時計が欲しくて仕方がない。ところがその時計は50万円もする。欲望に負けて、衝動的に買ってしまう。「支払いはカードで。分割払いで」とカードをさっと出す。さもスマートなように見えますが、要するに借金です。時計は手に入りますが、50万円という借金を抱えることになる。現金で支払う能力がないから、割賦でお願いしますと言っているだけです。まさに余分な欲望に負けた瞬間です。
「欲しいモノは現金で買う。できる限り借金はしない」。このような清規を自分に課してみてはどうでしょうか。
子の清規を守るためには、50万円と言うお金を貯めねばなりません。そこで時計を買うために毎月2万円の貯金を始めます。生活費の中から2万円の貯金は楽ではありません。それでも欲しい時計を手に入れるためにほかのことを我慢してお金を貯める。一年で24万円。二年と一ヶ月かかって、やっと目標の50万円が貯まります。そうするとどうなるか。多くの人は、せっかく貯めたお金で時計を買うのはもったいないと感じるものです。どうしても必要なモノであればまだしも、たかが時計に50万円も払うのはもったいない。もっと自分の為に役立つような使い方をしたい。
そうです。この時に気がつくのです。その時計を買うことは「余分な欲望」であることを。そしてもう一つ見えてくる余分なモノがあります。それは貯金をするために我慢をしてきたモノ。要するに我慢ができるということは、必要不可欠なものではなかったことに気がつくのです。自らがタガをはめることで、そして実践していくことで、自分が抱えている余分なモノがはっきりしてくる。本当に必要なモノが見えてくる。そういうものだと私は思います。
今という瞬間を生きる
漠然とした大きな不安を前にした時、私たちはそこから逃れる術を知りません。そもそも実態がないのですから、逃れる術などあるはずもない。自分の力量を超えたものに対しては、私たちは無力でさえあるのです。そうであるならばいっそ、その不安とやらに付き合ってみることです。
「任運自在」という禅語があります。この世の中で起きているすべてのことは、自らが運び動いています。たとえば春になれば草木が芽吹き、夏に向かって花を咲かせます。そこにはたくさんの虫や鳥が集まってきます。これらすべては自然の移ろいの中のこと。つまりは、大きな一つの流れに乗っているのです。人間もまた同じように、この自然の流れに身を任せ「あるがまま」を受け入れて生きること。その大切さを説いた言葉です。
どうしようもないことは、自然の流れに逆らうことなく身を任せてしまう。不安というのも、同じだと私は思います。もちろん自分の努力によって払拭できるものならば、自らが取り除くよう努めることです。しかし、それが自分の努力ではどうしようもないことであれば、いっそのこと不安を受け入れてしまうことです。頑なに立ち向かうのではなく、柔らかく受け止めてしまう。まあ、こんな不安があるのも仕方がないなと。そして受け入れた後には、そこに心を止めることなく、さっと脇に流してしまうことです。
「リストラされたらどうしよう」「老後の生活費がなくなったらどうしよう」「重い病に侵されたらどうしよう」。来てもいない不安に襲われることもあります。何かの根拠があるわけでもないのに、もしかしたらと悪い方に考えてしまう。マイナス思考という言葉がありますが、多かれ少なかれ人間の心にはそんな思考が備わっているようです。まずは、そんなマイナス思考が人間にはあるということを認めてしまうこと。それは自分だけが持っているもではなく、みんなが持っているモノだと思うことです。それを認めるだけで、随分と心は軽くなるものです。
「そうなってから考えよう」。これが不安に対しての一つの答えです。あれこれと思い悩むのではなく、不安が現実になってから考えればいい。現実にならなければそれでいいのです。来たら来たで、その時に解決策を考えればいい。大切なことは、未来の不安を考えることではなく、今と言う瞬間を一生懸命に生きることです。
「何とかなるさ」。「任運自在」という禅語には、この言葉が隠されているような気がします。冬になって草木が枯れても、また春は巡ってきます。台風ですべての葉が落ちても、必ずやまた復活してくる。自然はそのことを知っている。どんなことが起きようが、何とかなるということを知っている。それを知っているからこそ、思慮分別を働かせず、今と言う瞬間を大切にしながら花を咲かせている。
私たちが抱えている不安もこれと同じ。いざそれがやってくれば、何とかなるものです。それは決して他力本願ではありません。何とかする力こそは、自分の努力で蓄えなければなりません。「何とかなる」という言葉の裏には、今を一生懸命に尽くすという意味が隠されていることを忘れてはいけません。
まずは手放すこと
なんとなく毎日の生活に充実感がない。楽しいこともないし、何をやっても満足感を得ることができない。物事が思う通りに進まない。そんな状態になった時、人はどうしても「足りないモノ」を探し始めます。何かが足りないから楽しくないんだ。新しい何かさえ手に入れれば、きっと今の生活も楽しくなるはずだ。今の状況を変えるために、一生懸命に「足りないモノ」を探そうとします。
そしてそれが欲望となって表面に現れてくる。新しい洋服を買えば、きっと生活は変わるだろう。欲しい車さえ手に入れれば、もっと人生は楽しいものになるだろう。生活に何かを「足す」ことばかりを考えます。しかし、新しい何かを足したところで、心の充足感にはなりえません。なぜならば、手に入れたその時は満足感に包まれるでしょうが、すぐさまそれは「すでにあったモノ」になってきます。新しさの感動は瞬時に消え去り、再び「足りないモノ」を探し始める。その繰り返しによって、どんどん心の中に執着心が芽生えていきます。
「足りないモノ」を追いかけるのではなく、「要らないモノ」を手放すことを考えること。もしも今の状況を変えたいと思うなら、何かを「得る」よりも「手放す」ことが大事。禅的生活の基本はそこにあるのです。シンプルに生きるとは、無駄な持ちものをできる限り減らしていくことです。部屋の中を綺麗に整頓し、すっきりとした空間の中に身を置くこと。そうすることで、不思議と心の荷物までもが軽くなってきます。モノと心は無関係のものではありません。それは互いに影響を与えあっています。余分なモノが増えれば増えるほど、心の荷物もまた増えてきます。
もしも今、あなたの周りにモノが溢れているとしたら、何から手放せばいいのでしょうか。まずは、あなたの周りの物を三つに仕分けることです。一つ目は、絶対に自分にとっては必要だと思うモノ。仕事に欠かせないものであったり、あるいは自分の人生にとって大切なモノ。二つ目は、あればあった方がいいですが、なくてもいいと思えるものです。そして三つ目は、明らかに不必要だと思うものです。
この中で、一つ目のモノは手放す必要はありません。何でも捨てればいいということでもないでしょう。そして三つ目は、これは明らかに本人も不要だと思っているわけですから、簡単に手放すことができるはずです。肝心なことは、この三つ目に入るモノは、絶対に買わないでおこうと決めること。モノが溢れている人と言うのは、この不要なモノを次々と買ってしまう傾向があります。さて、重要なのは二番目のモノです。あったらいいですが、なくてもいいもの。これを思い切って手放すことが大事です。なくてもいいと自分ではわかっていても、ついあれこれと言い訳を考えながら捨てようとしません。
「いつか使うかもしれない」「いつか役に立つかもしれない」「いつか、捨てないでよかったと思う時が来るかもしれない」と。この「いつか」という日が来ることは99%ありません。もしもその「いつか」がくれば、その時にまた手に入れればいいだけの話です。思い切って、この二番目のモノを手放してみることです。部屋の中がスッキリすることで、心は軽やかになる。手放すということは、何かを失うということではありません。それは、別の何かを手に入れるということ。心の豊かさを手に入れるということなのです。
ぼーっとする時間を持つ
「質素」という言葉と「簡素」という二つの言葉があります。なんとなく同じような使われ方をしますが、これはまったく意味の違う言葉なのです。「質素」というのは、言うなれば価値の低いモノで生活することです。できるだけ安価なモノで済ませ、モノに対して拘りを持たないという姿勢です。
「簡素」というのは、必要なモノが厳選されているという生活です。一つでもいいから、自分が気に入った「いいモノ」を持つことです。5つも6つもいりません。高価なモノを一つだけ買い、それを大切にしながら暮らしていく。部屋の中をできるだけシンプルにし、本当に必要なモノだけにお金をかけながら生活していく。これが「簡素な生活」ということなのです。
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