枡野俊明著「持たないという幸せ」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

枡野俊明さんの「持たないという幸せ」を読みました。

枡野俊明さんの「持たないという幸せ」を読みます。字が大きくて200ページくらいなので気軽に読めそうです。

意外と読み応え有りました。

後半飛ばし飛ばしになりましたが、引用レビューします。

目次

 真の豊かさ、幸せとは?

 現代人に共通する特徴のひとつは、男女、年齢を問わず、「持ち過ぎている」ということではないでしょうか。モノだけではありません。様々な情報も抱えきれないほど持っている。

 モノでいえば、スマートフォンなどが典型だと思いますが、短期間に次々と新しい商品が発売され、巧みな宣伝によって消費者の購買意欲、言い換えれば、「持ちたい」という思いを刺激し続けています。ファッションや生活関連グッズも同じでしょう。

 情報も、今はインターネットで簡単に、いくらでも、手に入れることができます。豊かな、いや、豊かすぎるモノや情報を持ち、それらに囲まれて暮らしているのが現代人だと言っていいでしょう。

 日本は長い間、持つことが幸せにつながるという考え方に支配されてきました。戦後の混乱期以降、誰もが貧しかった時代には、たしかに持つことに多いなる価値があったのです。

 しかし、ここに来てはっきり逆転現象が起きています。

 持ちたいという欲望には限りがないということに人々が気付き始めたからです。何かを手に入れたら、そのそばから「もっと欲しい、もっと持ちたい」という思いが湧きあがってくる。

 モノへの執着は止めようがないのです。その結果、溢れかえるモノで生活空間が狭くなり、心まで窮屈になっています。

 役立つはずの情報も、持ちすぎることで、心を惑わし、不安を掻き立てることになります。

(中略)

 もちろん、持ちたいという思いを完全に消し去ることはできません。

 しかし、何を、どんなふうに、どのくらい、持つかということを、改めて考えることはできます。

 今求められているのはまさしくそのことなのです。

 モノでも情報でも「それが本当に必要かどうか?」。常にそう問いかけていく。自分の中にそんなルール作りをしてください。それが持つべきものは持ち、余計なものは持たない暮らしへの着実な一歩になります。

 禅にはこんな言葉があります。

 「過ぐることなく、欠けることなし」

 過不足がないということですが、それが最もシンプルで心地よいことなのです。暮らしも、生き方も、過ぐることなく、欠けることなし、がいい。真の豊かさも、幸せも、また、そこにあるのです。

 そのためには持ち過ぎている物を手放すこと、先にあげた「ルール」を堅持していくことが大切です。 

無理をするから、苦しみが生まれる

 仏教に「あきらめる」という言葉があります。一般的にはギブアップするという意味で使われますが、仏教的な意味はそれとは違います。「明らめる」、つまり、明らかにすることを言う言葉なのです。

(中略)

 明らかにするとは、そのままを受け止め、かつ受け容れることです。言い方を換えれば、思い通りにしようという考えを手放すこと、と言っていいかもしれません。受け容れたら、やるべきことが見えてきます。

(中略)

 思い通りにならないことを悩み、苦しみを増幅させるのではなく、"今、自分ができること"に目を、心を、転じることです。どんな状況にあったとしても、できることは、必ず、あります。 

固定観念は、一人歩きした縛りに過ぎない

 世の中には「常識」とされるモノがたくさんあります。

 それがどこかで行動規範となっている。もちろん、常識を持って生きることが、その社会を住みよいものにしたり、人間関係を円滑に、また、潤いのあるものにするという面はあるでしょう。

(中略)

 見極める目が必要です。キーワードは「真理」です。

 常識や標準とされるモノが真理といえるモノかどうか。それをじっくり見据えていく。そして、真理から遠いもの、真理を含んでいないものは捨てていくようにするのです。

 固定観念は心を縛る縄です。しかも、それをあざなっているのはほかならぬ自分自身なのです。

 その自縄自縛から離れることで心はずっと自由になります。それが、自分らしい生き方につながることは言うまでもありませんね。 

あったらいいのは、なくても良いモノ

 みなさんの暮らしの中にあるものについてこんな仕分けをしてみたらいかがでしょうか。「あったらいい」「あったら便利」「いつか役立つ」というものをピックアップするのです。

(中略)

 こうして仕分けることで、必要な物の優先順位が見えてきます。

 つまり、「なくては困る」モノがはっきりしてくるのです。それだけ残して後はすべて処分すべきだとまでは言うつもりはありませんが、少なくとも、それだけあれば支障なく暮らせるということは言えます。最低限必要なものについて把握しておくこと、逆に言えば、処分できるモノ"リスト"を頭に入れておくことは意義のあることだと思います。

(中略)

 「そうはいっても、物が心を豊かにしてくれるというところはある。必要なモノだけしかないのは、どこか寂しくない?心が貧しくならない?」

 そう考える人もいるでしょう。しかし、心を豊かにしてくれるのは、モノの「量」ではありません。「質」です。

 たとえば、自分が本当に気に入っている焼き物の、少し高価なお茶碗が一つだけあったら、心は豊かになります。それを普段使ったらいいのです。これなど、必要なモノだけで心が豊かになる好例でしょう。 

まずは「持たない」ようにする

 「捨てる」はいったん持ったモノを手放すということでしょう。それよりも、そもそもモノを持たないようにすることが、まずは肝要だと思います。

 みなさんにも経験があると思いますが、手に入れたモノを手放すのはなかなかに決意がいるものです。モノが増えるのも、手放せない、捨てられない、という思いが主たる要因と言えます。

 では、持たないにはどうしたらいいのか。最初にやるべきことは、それが本当に必要なモノかどうかを見定めることです。

(中略)

 また、必要なモノを買うときにもちょっとしたコツがありそうです。少し値が張っても、良いモノを買うというのがそれです。良いモノには、品質が良いということのほかに、自分が本当に気に入っている、自分にとってとても使い勝手が良い…といった要素も含まれます。 

モノの見方を変える術を身につける

 人生には山もあれば谷もあります。つらい、苦しい、厳しい…状況という谷にいて、谷底ばかり見ていたら、身動きできなくなります。しかし、視線を上に向ければ、自分が登るべき山の頂が望めます。さらに目を凝らせば、頂に至る道筋も見えてくるのです。

 一歩ずつ、着実に歩を進めれば、やがては頂に到達します。登れない山はありませんし、乗り越えられない試練も、また、ないのです。頂に立って見渡す風景には感動せずにはいられないでしょう。

 自分の足で登ってきたから、その感動が得られるのです。谷が深ければ深いほど、感動も大きなモノとなります。感動とは、言葉を換えれば、新たな自分との出会いといってもいいかもしれません。 

これからは持たない生き方をする

 人の幸せを長い間支えてきたのは「モノ」でした。誰もが貧しかった戦後の混乱期から高度経済成長期を経てきた日本では、たくさんモノを持つことが豊かさであり、それがそのまま幸せにもつながるという考え方が、国中に蔓延していたと言っていいでしょう。

 それが多分に、戦後7年間近く日本を占領していたアメリカの考え方、米国流を反映していたモノだったことは疑いを入れません。モノを持つことに豊かさも幸せもあり。アメリカはその米国流、いってみれば、モノ至上主義を日本に持ち込んだのです。

 そして、モノを持つことに狂奔する時代は続きました。いや、今もまだそこから抜け出していないと言ってもいいかもしれません。しかし、少しずつではあるにしろ、流れは確実に変わってきています。

 モノを手に入れること、モノに囲まれていることが、本当に心を豊かにしてくれるのか。

 誰もがそんな疑問を感じるようになったのです。私はその"気付き"に禅が大きくあずかっているという感触を持っています。

 「放下着」

 この禅語は捨てて、捨てて、捨てて切ってしまいなさい、という意味。持たないことのススメです。

 禅のこの考え方にいち早く傾倒したのは一人の米国人でした。あのアップルの設立者の一人であるスティーブ・ジョブスがその人。ジョブスに禅の手ほどきをしたのは禅宗(曹洞宗)の僧侶・乙川弘文師ですが、ジョブスはたちまちその世界に惹かれ、禅を製品づくりにも活かします。

 アップル社のコンピューターやスマートフォンの最大の特徴は、できる限り機能を削ぎ落としている、つまり、捨てていることです。たとえば、パソコンにしても、アップル製品が持たせているのは必要最小限の機能です。他社製品があれもこれもと、様々な機能を盛り込む中で、明らかに独自路線を貫いています。それが多くのユーザーに使い勝手の良さ、使い心地の良さを感じさせている。

 さあ、ここで「機能」を「モノ」に置き換えてみてください。モノがふんだんにあることは、豊かで便利のように思えますが、実はそうではないのです。使い切れない機能がそうであるように、溢れんばかりのモノは、ハッキリ言って無用の長物。しかも、機能は場所をとりませんが、モノはスペースを占領します。

 生活が窮屈になるのです。物理的に窮屈になるだけではありません。禅語に「身心一如」というのがありますが、身体と心は一体ですから心も窮屈になるのです。

 それが心地よいモノであるかどうか。これはもう、考えてみるまでもありませんね。

 削ぎ落せるものは、削ぎ落とす、持たない。そんな暮らし、生き方に目を向けませんか?ひとつ削ぎ落とせば、心は少し自由に、軽やかになります。ひとつ持たなければ、その自由さ、軽やかさが、また、少し増すのです。 

多くを求めず、これで十分

 心豊かに、穏やかに、また、安らかに、清々しく、生きていくにはどうしたらいいのでしょうか。

 お釈迦様は答えを出されています。

 「知足」

 お釈迦さまが入滅される直前、最期に語られた言葉をまとめた『仏遺教経』というお経の中に出てくる言葉です。知足についてお釈迦様は次のようにおっしゃっています。

 足ることを知っている人は、地上に寝るような暮らしをしていても、心は安らかである。足ることを知らない者は、天上の宮殿のようなところに暮らしていても、心が満たされることはない。

 足ることを知らない者は、どれほど裕福であっても、心は貧しい。足ることを知っている人は、いくら貧しくても、心はいつも豊かである。

 足ることを知るとは、「もう、これで十分だ。ありがたい」という心でいることです。

(中略)

 知足で生きるためのキーワードは「持たない」「手放す」の二つでしょう。もちろん、生活するのに必要不可欠なものはあります。しかし、それだけでは「もう十分だ」と思えないのが現代人です。

 これからは買う前に「本当に必要なのか?」と自分に問い質す習慣をつけましょう。それが「持たないという幸せ」、その生き方の手始めです。

 そして、今あるモノを整理する。使っていないモノは手放すのです。すると、住空間が格段にすっきりします。心地よくなる、心が清々しくなるのです。 

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