どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
枡野俊明さんの「心配事の9割は起こらない」を読みました。
引用レビューします。
はじめに
余計な不安や悩みを抱えないように、
他人の価値観に振り回されないように、
無駄な物を削ぎ落として、
限りなくシンプルに生きる。
それが、この本で私が言いたいことです。
禅僧という立場だからでしょうか、私は、たくさんの人から様々な相談を受けます。内容は千差万別ですが、それでも大別すれば、不安や悩み、迷い…といったものです。
そんな話にじっくり耳を傾けてみると、気がつくことがあります。それは、そのほとんどが、実は「妄想」や「思い込み」、「勘違い」や「取り越し苦労」にすぎない、ということです。「実体」がない、と言ってもいいでしょう。
「あなたは当事者じゃないからそんなことが言えるんだ!」
「食事も喉を通らないほど悩むことが現実にあるのよ!」
そう、お叱りを受けるかもしれませんね。
しかし、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というではないですか。これは幽霊と恐れていたモノが、なんのことはない、ただの枯れススキだった、ということですが、心にわだかまったり、心を落ち込ませたりしているモノも、実はそれと同じ。客観的に見れば、「なんでもないこと」に振り回されてしまっていることが多い、というのも、やっぱり本当のことなのです。
本書に『心配事の9割は起こらない』というタイトルをつけたのは、みなさんにそのことを知ってほしいからです。
自分の物差しで生きる
生きていく上で誰もが少なからず意識しているのが「世間の常識」というものではないでしょうか。
みんなが常識を踏まえているから社会は成り立っている。それぞれが好き勝手をやって常識から逸脱すれば、社会は混乱することにもなるでしょう。
常識は守るべきもの。それは大原則ですが、ともすると、常識にこだわるあまり、自分らしさがなくなる、ということにもなるような気がします。
常識に縛られ、自由な発想ができない、自由に振る舞えない、心が窮屈になる…。そんな風に常識が手枷、足枷になっている、と感じたことはありませんか?
常識から自由になって、でも道を誤らないで生きるには、自分の「物差し」を持つことが必要です。根底には常識というものを感じながら、時にそれにこだわらないで自分独自の判断をする指針、物事を自分流に解釈するよりどころ。「物差し」とはそういうものだと思います。
さて、そんな「物差し」を持つためにはどうしたらよいでしょうか。
これはもう、自ら実践していく、経験を積んでいく以外に方法はありません。
禅では「実践」を最も重んじます。
そのことを教えるのが「冷暖自知」という禅語です。器に入っている水は、見ているだけでは「冷たい」のか「暖かい」のかはわからない。実際に自分で飲んでみる(あるいは、そこに手を入れてみる)以外に、「冷暖」を知る手立てはないのだ、という意味です。考えるより動くことが大事なのです。
(中略)
「論語」にこんな一節があります。
「七十にして心の欲するところに従えども、矩を踰えず」
心の欲するところに従うとは、自分の思うように考え、また、行動するということ。矩を踰えずとは、人の道を踏み外すことがない、ということです。
(常識にこだわる、こだわらないなどということを超えて)思うがまま、自由に生きていて、人としての真理、生きる上での真理に、きちんとかなっている、という意味ですね。心の中に磨き上げられた「物差し」を持って生きるとは、こういうことを言うのです。
感情に逆らわない
いつもイライラしてしまう、すぐクヨクヨしてしまう…。どうすれば、もっと上手に感情をコントロールできるのか?
そのためには、「無心」でいることです。
無心であれば、感情に振り回されることはありません。物事に一喜一憂することもなく、気持ちはいつだって平穏です。
しかし、無心でいるのは容易なことではなく、なんとも難しい。坐禅をしているときも、「無心に座らなければ…」という思いが強いと、かえってそれにとらわれる。「何も考えちゃいけないんだ」「心を空っぽにしなくては」ということばかりが頭の中で堂々巡りをしてしまうのです。
坐禅をしていたって、様々な思いが浮かんでくるのは止めようがないのです。
浮かんできた思いはそのままほおっておけばいい。
すると、自然に消えて行ってしまいます。
浮かぶに任せ、消えるに任せる。それが「無心」に近い心の在り様です。
水に一石を投じると、さざ波が立ち、波紋が生まれます。その波紋を何とか静めようとして手を水に入れたら、さらに複雑な波紋が生じる。放っておけば、次第に波紋はおさまっていき、やがては鏡のような水面が戻ってきます。
心も同じことでしょう。
「雲無心にして岫を出ず」
という禅語があります。
文字通り、雲はなにものにもとらわれず、風が吹くままに形を変え、いざなうままに動いていきながら、雲であるという本分を失うことはない、という意味。まさに、無心を現じているのです。
私たちは、日々、様々な状況に出合います。いいこともあれば、悪いこともある。気分が晴れ晴れすることもあれば、腹に据えかねることもあるでしょう。いずれにしても、それにとらわれたら心が大きく乱れます。
もちろん、喜怒哀楽という感情は、人間らしさそのものですから、湧き上がってくるのに任せておけばいいのですが、それをなんとかしようとするから、跳ね返してやろうと考えるから、いつまでもそこから離れられなくなるのです。
その時々の思いや感情に「動かされない」でいようとする必要はありません。浮かぶに任せ、消えるに任せ、です。
それがとらわれない姿。そこに気がついたら、「力み」がなくなり、「いま」に集中し、心はずっと柔らかく、しなやかになります。
さあ、「無心」にぐっと近づいていきましょう。
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