平井正修著「心がみるみる晴れる 坐禅のすすめ」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

平井正修さんの「心がみるみる晴れる 坐禅のすすめ」を読みました。

久しぶりに本読みました。

引用レビューします。

目次

 余計なものを捨てて、本来の裸の心に戻ること、それが坐禅

 ふつう、スポーツのトレーニングでも習い事の稽古でも、練習を重ねれば、自分の変化や力の向上がはっきりわかります。たとえば、ピアノはレッスンを重ねれば、技術が上達していくし、弾けなかった曲が弾けるようになります。水泳でも、泳ぐ距離が伸びたり、タイムが縮まったりするわけです。

 つまり、それまでできなかったことができるようになる、できることの幅が広がる、質が高まる。……それが一般的なトレーニングや稽古、といったものです。

 ところが坐禅は違います。まあ、続けていると足が痛くなったりしびれにくくなったりするといった"変化"はあるかもしれませんが、「あれっ、どんどん自分が変わっていく」「おお、こんなに力がついた」と感じるものは何もないのです。

 それも当然。坐禅はなにかを身につけるのではなく、逆にどんどん捨てていくものだからです。

「誠を尽くす」とはどういうことか?

 全生庵の先代住職であった父が他界したのは七十四歳、私が二十五歳の時でした。

 当時、私は静岡県三島市にある臨済宗龍沢寺の修行道場で寝起きしていましたが、父の死後、全生庵に戻って住職を継ぐことになりました。

 葬儀もあり、何かとあわただしい中で、私は何としてでも住職としての役目を果たさなければいけない、と考えていました。それが気負いにも、背伸びにも、なっていたのでしょう。何事も上手くいかないのです。

 そんな私を見かねたのか、師がこんな話をしてくれたのです。

 「上手くいかないというが、お前が上手くいくというのは、どういうことをいうのだ」

 師に尋ねられて、私は、「自分がこうなったらいいな、という風に物事が進むことです」と答えました。師から返ってきたのはこんな言葉でした。

 「こうなったらいいな、というのはお前が勝手に思っていることだろう。たかだか二十五歳のお前が思うように世の中が動き、物事が進んでいったら、それこそ恐ろしいことだと思わんか

道に迷った時どうしますか?

 人は道に迷った時、さて、どうするでしょう?全生庵にも時々、道に迷ったからといって連絡を取ってくる人がいます。

 「そちらに伺いたいのですが、どう行ったらいいのでしょうか?」

 私は言葉に窮します。この問いには答えようがないからです。そこで、こう問い直します。

 「いま、あなたは、いったい、どちらに、いらっしゃるのですか?」

 現在その人がいる場所がわからなければ、道を教えようがありません。そう、道に迷ったら、真っ先にやるべきことは、立ち止まって、その時自分がどこにいるのか、その場所を確認することなのです。

 きわめて基本的なことなのに、案外、それを忘れることがある。

 自分がどこにいるかわからずに、四方八方に視線をやって、「どの道を行けばいいのだ」とやっているのだから、道が見つかるわけもないのです。

 人生という長い道のりを歩んでいるときも、この基本原則は同じです。いや、長いからこそ、いっそう基本に忠実であるべきです。 

毎日を大切に生きることについて

 "一所懸命""精いっぱい"の姿勢で物事に当たる。それが最も大事です。

 なぜか。

 私たちにはいつも「その瞬間」しかないからです。

 過去は過ぎ去ってしまっていて、今さらどうしようもないし、未来はやってきていないのだから、手の着けようがありません。 

坐禅と呼吸と「心の豊かさ」の関係

 腹が立ったら怒ればいい。泣きたければ泣けばいいのです。坐禅をしたからといって、怒りや哀しみを感じなくなるなんてことはありません。自然に湧いてくる感情は止めようがないし、止める必要もないのです。

 どんなことがあっても、変わらないでいることが立派なら、人なんかより石や木の方がよっぽど立派ということになる。蹴飛ばされても石は文句ひとつ言わないし、枝を折られたって木は嘆きもしません。 

心がキレる、心が折れる、とは?

 心が張り詰めた状態にある。喩えていえば、弦楽器の弦をギリギリまでピンと張ったような感じ。こんな状態だと、衝撃に弱い。ちょっと力が加われば、衝撃を受けたら、プツンと切れてしまいます。

 常に張り詰めている心にも、ちょっとした刺激で同じことが起こるのでしょう。プレッシャーを受けて自分を失ってしまったり、溜まった鬱憤に耐えられなくなって、一気に爆発させたり……。心がキレるとはそういうことではないでしょうか。

 だったら、ゆるめればいいのです。弦にゆるみがあれば、少々の力や衝撃が加わっても、切れることはありません。心だって緩めれば、様々な刺激に対しての耐久性が増すのです。

 「柳に雪折れなし」という言葉があります。柳は微風がそよいでも揺れて、どこか頼りなげに見えます。しかし、雪が降り積もっても折れることはない。しなやかな緩みで耐えきってしまいます。

 「自分は正しいのに、周りがわかってくれない」「努力を評価してくれない」「あんな生き方はおかしい」「こう生きなくちゃいけない」……。そうした思い込みは、心を張り詰めさせる一つの要因です。張り詰めることで、思いにそぐわないことを跳ね返そうとするのです。しかし、世の中、そぐわないこと”だらけ”ですから、跳ね返そうなんて土台無理な話なのです。耐えきれなくなって、"キレる"のは、必定といってもいいでしょう。

 折れるのは心が固まっているから、ということでしょうか。怒りで固まり、哀しみで固まり、嬉しくて固まり、苦しくて固まり。とにかくギュッと固まってしまっている。

 心はしばしば水に喩えられます。「水は方円の器にしたがう」という言葉があるように、水は四角い器に注げば四角くなるし、丸い器に入れたら丸い姿になります。本来、心もそうした自在さ、自由さを持っているのです。

 ところが、水が固まって氷になると、それらが失われます。器にしたがって自在に、自由に姿を変えることができない。無理に押し込もうとすると、壊れてしまうわけです。心が折れるというのは、固まった心が、周囲の状況や事態に対応することができず、それを受け止められなくなる、ということでしょう。

 固まっていたら、溶かせばいいのです。 

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