亀山早苗著「もうすぐ30歳になるあなたへ」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

亀山早苗さんの「もうすぐ30歳になるあなたへ」を読みました。

女性向けだと思うので、ところどころ飛ばしながら、斜め読みしながら読みました。

引用レビューします。

目次

 結婚願望に潜んでいるもの

 私たちは子どもの頃から、おとぎ話や昔話の中で、「そして王子様とお姫様は(木こりと村娘でもいい)、いつまでも幸せに暮らしましたとさ」で終わる物語をたくさん聞かされてきた。私は子ども心に、「いつまでもって、いつまでだろう」と思ったことがある。ひねた子供だ。だが、子供の直感は当たっている。

 結ばれた二人がどうやって暮らして、どんな老後を迎えたのか、どのような幸せを手に入れたのかまできちんと書いた物語がかつてあっただろうか。すべては一緒になったところで終わり、完結してしまう。これでは結ばれること自体が幸せなんだと子供にインプットしているようなもの。

 幼児期にこういう物語をたくさん聞かされてしまったら、「結婚することイコール幸せ」と思ってしまってもおかしくない。だからいくつになっても、漠然とした「結婚願望」が程度の差こそあれ、女性の心に潜んでいるのではないだろうか。

自分を幸福にするのは自立した自分

 家があって、子供たちがいて、時々、家族で出かける姿を目撃する。人はそれだけで、「あの家は家族仲も良くて」と判断しがちだが、中に入らない限り、他人の家族のことはわからない。今の時代、どんなに頭脳明晰で優秀な夫を選んでも、リストラに遭ったり、会社が倒産したりする可能性がまったくないとはいえない。

 そもそも「夫という名の他人」によって幸福にしてもらおうと考えてはいけないのではないか。結婚するにしろしないにしろ、自分を幸福にするのは自分だ。自分が充実感を味わえるような人生を送っていて(現実的には難しいが、そういう努力をしていて)、他人をも幸福にしてあげたいと思う気持ちの二人が結び付く方がずっと幸福度は高い。

 相手に何があっても、自分がしっかり自立していれば共倒れにならずに済むし、支えることもできる。だが、幸福にしてもらおうと思っていた相手がふとしたことで転んだら、しがみついていた自分も一緒に転んでしまう。自分ひとりの人生にさえ責任を取れずに他人に寄りかかろうなんて、そもそも自分の人生に対して失礼な話ではないだろうか。

"何がしたいか"つねに問いかける

 突然、まったく別の世界へ軽やかに飛び立っていく友人知人を見ていると、こちらまで楽しい気分になる。何物にもとらわれずに、自分の人生をまっすぐに見つめていけるのはシングルならではの良さかもしれない。

 そこに至るまではいろいろ葛藤もあるだろう。「人にどう思われるか」「新しい世界でやっていけるのか」などなど、不安も尽きないはずだ。それでも自分の心の決めたままに歩いていく。新たな会社、新たな世界へ飛び立った女性たちに話を聞くと、彼女たちは目を輝かせながらこう言う。

 「今、そうしなければきっと後悔すると思ったから」

 きっと自分の心の奥深くを覗き込んで、自分の勘を信じたのだろう。世間体や「こうあらねばならない」というものを排除していったとき、自分の心の核が見えてくる。核が見えた人は強い。あとはまっしぐらに進んでいけるから。もしその道がダメでも、また心の奥に問いかければいい。「今度は何がしたい?」と。 

何かに挑戦することが女性を美しくする

 三十歳になった頃、十歳近く年上の先輩に言われたことがある。

 「三十代は早いわよ。それに三十代をどう生きるかで、四十以降が決まって来るような気がする。何でもいいから、いろいろなことにチャレンジした方がいい。続かなくてもいいのよ。何かに興味を持てる自分を三十代のうちに作っておくといいと思う。二十代ではそんな余裕はないし、四十代から急に何かを始めるのは体力がいるし、三十代で習い癖とか趣味癖をつけておくと、あとが楽しいわよ」 

シングルライフを満喫するには貪欲になること

 宗教には縁がないが、「扉を叩け、さらば開かれん。求めよ、さらば与えられん」という聖書の言葉が好きだ。自分が行動を起こす。そこには必ず何かいいことがついてくる。

 嫌なこともあるかもしれないけれど、それさえ逆手に取って自分の糧にすればいい。行動を起こさなければ、何も起こらない。何も起こらないということは、嫌な気分にもならない代わりに、楽しいことも知らずにいるということだ。 

自分の常識は他人の非常識

 自分と違う人がいるから世の中は面白いのだし、いろいろな人々で社会は成り立っているのだという意識は持ち合わせていた方がいい。よく何かあると、「信じられない」と声を張り上げる人がいるけれど、そういう人の方が「信じられない」。

 自分の想像を超えたものが世の中にはたくさんあるし、それを「信じられない」ということは自分の人間としての幅の狭さを公言しているようなものだと思う。「信じられない」といって可愛いと思われるのは二十歳までではないだろうか。

 以前は、人間としての魅力は深さで決まると思っていた。何かあった時の洞察の深さ、思いやりの深さ、あらゆることが「深く」なくてはいけないと信じ込んでいた。だが今は、深さに加えて「幅」も大事だとつくづく思う。

 他者を理解するためには深さだけではどうにもならない。自分の常識や想像を超えたものに直面した時、その人の魅力となり得るのは「幅」なのだ。自分の常識なんてたかが知れている。自分以外の人たちが織りなす常識は、自分ひとりの常識よりよほど幅が広い。

 それを自分の想像力の限度を超えているからといって、「非常識」と非難することはできない。「自分の常識は他人の非常識かもしれない」と思いつつ、世の中を手探りで試行錯誤して生きていくしかないのだろう。 

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