ひろさちや著「気にしない、気にしない」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

ひろさちやさんの「気にしない、気にしない」を読みました。

引用レビューします。

目次

 もし神様に願いをかなえてやると言われたら

 こんなジョークがユダヤにあります。

 二軒並んで営業している肉屋の一軒に神様がやってきて、

 「そなたの願いはなんなりとかなえてやる」

 と言われました。それで肉屋が喜んで希望を言おうとすると、神様は、

 「まぁ、待て待て。実は、お前に授けてやることの二倍を隣の肉屋に授けてやることになっておる。お前が一億円を授けて欲しいといえば、すぐにお前に一億円を授けてやる。しかし同時に、隣の肉屋には二億円を授けてやることになっておる。それをよく考えて、お前の望みを言いなさい」

 と注意されました。

 肉屋は困りました。そこで彼は、神様に質問します。

 「では神様、私が不幸を望めば、隣は二倍不幸になるのですか?」

 「その場合は、まあそうなるわけじゃ」

 「わかりました。では、神様、どうか私の片目を潰してください」

 おわかりになりますよね。彼の片目が潰れると、隣の肉屋は両目が潰れることになるわけです。

 せっかく彼は幸福になれるチャンスを与えられながら、むしろ不幸を選択してしまったのです。他人を気にすれば、そういうことになりかねません。

 ではどうすればいいのでしょうか?

 簡単です。他人のことを気にしなければいいのです。 

私たちは「自分の人生を生きる」のです

 会社はあなたに模範社員を「期待」します。けれども、どういう人間が模範社員なのか、誰にもわかりません。時と場合によって違います。あまり出しゃばらず、他人と協調性のある社員が「期待」されることもあれば、積極性・行動力のある人間が模範社員とされることもあります。

 経営者の「期待」と、中間管理職が部下に「期待」するモノは同じではありません。同じであれば社員は割と楽ですが、上役の「期待」がてんでバラバラだから、社員は「期待」に悩まされるのです。下手をすればノイローゼになります。

 したがって、私たちは、他人の「期待」や世間の「期待」に過剰反応することをやめましょうよ。 

役割として「考えない」こと

 考えるのは管理職の仕事です。

 一般のワーカーは、上から命じられたことを、命じられた通りにやっていればいいのです。何も考える必要はありません。いや、考えてはいけないのです。

 たとえば大統領官邸の警備を担当している人間は、「絶対に持ち場を離れるな!」と命じられています。ところが、目の前の道路で、数人の男が一人の女に暴力をふるっている。女性は殺されかけています。その女性を助けるために警備員がそこに駆けつける。そのすきに、武装したテロリストが大統領官邸に入るかもしれません。道路上で行われていたのは、テロリストたちの演技・演出であった、ということもありうるのです。

 日本であれば、もしもガードマンが道路上で行われている暴力を見て見ぬふりをすれば、そして実際に女性が殺された場合(つまりそれが演技・演出でなかった時)

 「人命の大切さはわかっているはずだ。お前はなぜ救助に駆け付けなかったのだ!?」

 と、ガードマンに非難が集中します。ということは、上からの命令と人命救助のどちらを選ぶか、ガードマンに考えさせようとするのです。そんなおかしな命令がありますか!?部下に考えさせるくらいであれば、そもそも上司なんて必要ありません。

 アメリカ人であれば、もしも女性が殺された場合、そういうマニュアルで仕事をさせた上司の責任です。部下に責任はありません。 

拍手喝采を求めるから不安になる

 古代ローマの思想家のエピクテトスはこう言っています。

 

 不安がっている人を見ると、私は言うのだ。この人は一体何を欲しているのだろうか、もし彼が何か自分の権限内にないものを欲しているのでないならば、どうして不安なのだろうかと。だから竪琴を弾いて歌う人も自分ひとりで歌うときは、なるほど不安ではないけれども、舞台に上がると、たとえ非常に声が良く、竪琴が上手いとしても、不安になるのだ。なぜかというと、彼は上手く歌いたいばかりでなく、拍手喝采もされたいからである。だが、これはもはや彼の権限内にはないのだ。 

観客に注目されていると思い込んでいる

 一番いいのは、観客―「世間」―なんて気にしないことです。

 チケット代を払った観客であれば、舞台に立つ役者はある程度観客に配慮せねばなりません。しかしあなたは役者ではないし、「世間」はチケット代を払っていません。だから、「世間」のことなんて少しも気にする必要はありません。あなたは自由に、勝手に行動していいのです。 

時間は未来からやってくる!

 釈迦はあるとき、舎衛城の祇園精舎で弟子たちに、

 「今日、私は『一夜賢者のゲ』について話そう」

 と言って、一つのゲ(詩)を語りました。

 過去を追うな。

 未来を願うな。

 過去はすでに捨てられた。

 未来はまだやってこない。

 だから現在の事柄を、

 現在においてよく観察し、

 揺らぐことなく動ずることなく、

 よく見極めて実践すべし。

 ただ今日なすべきことを熱心になせ。

 誰か明日の死のあることを知らん。

 そして釈迦は、この詩の通り実践したものを「一夜賢者」といい、心の鎮まれる者であると結んでいます。

 では、「一夜賢者」とは何でしょうか?

 古代の人たちは、夜をもって一日を数えました。"一夜賢者"は「一日賢者」という意味です。

 しかし、「一日賢者」と言っても、「一日駅長」や「一日税務署長」と同じではありません。「一日駅長」はその日だけ駅長の役目を務め、翌日は駅長でなくなります。

 けれども、「一日賢者(一夜賢者)」は、ともかく今日一日は、賢者でいようと努力をし、そして翌日になれば、また今日一日を賢者であろうと努力する。そういう人を言うのです。

 私たちは、賢者になりたいと思います。あるいは善人になりたいと思います。しかし、賢者・善人であり続けることは、なかなか大変です。しんどいですね。

 そうではなしに、ともかく今日一日だけは賢者・善人でいようと思うのです。明日のことは知りません。今日一日だけでいいのです。

 そして、それが上手く行ったら、その翌日、ともかく今日一日だけは賢者・善人でいようと努力すればいいのです。

 もちろん、我々は未完成な人間ですから、その今日一日だけでも失敗することがあります。でも、失敗を気にしてはいけません。また明日がやってきます。すると昨日のことは忘れて、また今日一日は……と努力すればいいのです。それが《過去を追うな。未来を願うな》です。 

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