どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
枡野俊明さんの「禅と食」を読みました。
引用レビューします。
食材に対する心のありようは人間関係にもあらわれる
『典座教訓』はこう戒めています。
(たとい粗末な菜っ葉を用いてお汁物やおかずを作るときでも、これをいやがったり、いい加減に扱ったりする心を起こしてはならないし、また、たとい牛乳入りのような上等な料理を作る場合でも、それに引きずられて喜んだり、浮かれ弾んだりする心を起こしてはならない)
食材が粗末か、高級かによって、一喜一憂するな、というのです。さらにこのくだりは次のように続きます。
(決して品物の良し悪しに引きずられて、それに対する自分の心を変えたり、人によって言葉づかいを改めたりしてはならない)
特に後段は示唆的です。食材に対する心の持ちようや態度は、それだけにとどまらず、人間関係にもあらわれてしまう、と道元禅師は喝破しているのです。
(中略)
日々、調理をするときに食材によって扱いを変える。高級なものは丁寧に扱う反面、粗末なものは疎かにする、といったことをしていると、そのような心が育ってしまうのです。日常的なふるまい、所作と心は切り離すことができないからです。
食材は大切に、余すところなく使い切る
たしかに、ニンジンの皮や大根の葉やしっぽなどは生ゴミですから捨てるのが当然と考えられています。しかし、道元禅師の著した『典座教訓』にはこんな記述があります。
(材料を人間の眼のように大切にしなさい)
食材はすべて丁寧に、大事に扱うべきだというのが、道元禅師の教えです。そこに"野菜クズ"という発想はありません。食材を全部使い切る。ていねいに、大事に扱うとはそういうことでしょう。
ニンジンの皮や大根のしっぽも、たとえば、きんぴらなどにすれば、美味しい一品となりますし、大根の葉っぱだってひと揉みしたら、みずみずしくてあっさりした漬物に早変わりするのです。
実際、禅寺での修行中に出される精進料理では、食材は余すところなく使われます。仏教にある「一物全体」という言葉は、命あるものは全体でバランスがとれているのだから、野菜もそのすべてを食べることが、栄養的にも体にとっても最も好ましい、ということを言っています。
修行中の禅僧の食事とは
食事をするときに使うのは応量器(鉄鉢)という、入れ子になった木の器です。朝食は「小食」と呼ばれますが、応量器の一番大きな器にお粥が一杯。それにつくのが、胡麻と塩を一対一の割合で炒った胡麻塩と香菜、つまり、漬物が少々ですから、おかず(副菜)というには余りに寂しい。
昼食は「点心」といい、お粥ではなくご飯が出ます。ただし、白米のところもあれば、白米と麦を混ぜて炊くところもあります。ちなみに、私が修業をした曹洞宗大本山総持寺では麦を入れていました。おかずは味噌汁と香菜のみです。
夕食の「薬石」になると、少し"豪華"になります。点心に「別菜」と呼ばれるおかずがつくのです。もっとも、大根を煮たものや煮たがんもどきを半分に割ったものが、別菜のすべてですから、ここでも質素は貫かれています。
器は三本の指で持つと「所作」が美しくなる
禅の食事では、親指、人差し指、中指の三本を使うことになっています。この三本は、浄指といって、清らかな指とされ、薬指、小指は不浄指とされているからです。食事に使う応量器のうち、一番大きい頭鉢と呼ばれる器でお粥を受ける時も、左右の親指、人差し指、中指で支えます。
ちなみに、頭鉢はお釈迦様の頂骨とされているため、ことさら丁寧に扱わなければならないとされ、直接、口をつけることも禁じられています。
この三本指で器を持つ禅の食事作法を、みなさんも取り入れたらいかがでしょうか。実際にやってみるとわかりますが、五本の指を使うより、所作としてはるかに"品格"を感じさせるのです。
嫌いなもの、食べられないものには手をつけない
やはり、率直に嫌いは嫌い、食べられないものは食べられない、と伝えるのが一番でしょう。ただし、「私、これ嫌いなんです(食べられないんです)」というのは、いかにも配慮に欠けます。
「せっかく用意してくださったのに、申し訳ないのですが、実は私、こちらはいただいたことがなくて……」
こんな言い方なら相手も気配りを感じて、決して傷ついたり、嫌な気持ちになったりすることはないと思うのです。さらに次のように付け加えると、いっそう配慮の深さを感じさせます。
「どなたかに召し上がっていただけたら、うれしいのですが……」
箸をつけていなければ、それを誰かに食べてもらうことは、作法に反することではありません。
ひとつ「贅沢」な器、箸を取り入れる
ご飯茶碗でも、湯飲み茶碗でも、お椀でも、何でもいい、ひとつお気に入りのものを使ったらどうでしょうか。少し奮発して気に入ったいい物を買う。百円均一の商品にはそれなりの価値も意味もあるとは思いますが、「お気に入り」には、また違った価値と意味があるのです。
何軒も店をまわり、選び抜いて買った「これだ!」という器は、大切に扱うようになります。食事中もテーブルに音を立てて置いたり、箸で移動したり(寄せ箸)、器の上に箸を置いたり(渡し箸)することもないでしょう。
自然に箸使いのタブーを犯すこともなくなり、食事を丁寧にゆっくりするという習慣がつくのです。"丁寧にゆっくり"は料理の素材を感じながら味わうのに、不可欠の条件と言えます。つまり、食事を心から楽しめる。このことだけでも大いに意味深いことではないでしょうか。
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