ひろさちや著「じたばたしても仕方ない」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

ひろさちやさんの「じたばたしても仕方ない」を読みました。

引用レビューします。

目次

 まえがき

 何か問題が生じたとき、その解決には二つの方向性があります。

 一つは、対象・外界・相手を変えることによって、問題を解決しようとするやり方です。

 もう一つは、自分自身を変えるやり方です。

 貧乏な人が、何とか努力して金持ちになる。病気になれば、その病気を治癒させる。人間関係のトラブルであれば、相手を謝罪させる。それが前者の、対象・外界・相手を変えるやり方です。

 けれども、このやり方は、それほど成功率は高くありません。あなたがいくら努力しても、あなたが大金持ちになることはめったにないでしょう。

 それに、人間関係に関していえば、相手を変えようとすれば、ほとんどの場合、問題をこじらせてしまいます。したがって、この方向での解決は、本当は愚策というべきです。

 ところが、たいていの人が、問題解決といえばこの愚策によっています。何とか努力して、状況や相手を変えようとするのです。努力すれば何とかなる。一に努力、二に努力、三、四がなくて五に努力と、やたら「がんばれ、がんばれ」とわめき散らすのです。それが平均的日本人の姿です。

 仏教は、そんなことは言いませんよ。

 私は仏教を学んでいる人間ですが、私の学んだところでは、仏教は、何も世界や相手を変える必要はない、あなた自身が変わればいい――と教えています。 

引きこもりで悩む人に

 引きこもりになった者は、引きこもりは悪いことだと思って悩んでいます。不登校になった子は、不登校はよくないと思って悩みます。そればかりでなく、自分は親に迷惑をかけた、恥をかかせたと思って悩みます。そして周囲の人間は、引きこもりはよくない、不登校は悪いことだという前提に立って、彼にアドバイスしたり、励ましたりします。そうすればそうするほど、ますます彼は悩むのです。だって、引きこもりが悪いことだという前提が同じですから、悩みは深まるばかりです。

 けれども、引きこもりは病気ですよ。病気のうちには、治るものもあれば治らないものもあります。そして、肉体の病気だって、たいていは免疫力が高まることによって自然に治癒します。引きこもりという精神の病気も同じで、本人の自然治癒力が高まった時に治ると考えた方がいいでしょう。その自然治癒力を高めるためには、引きこもりは悪いことだと思ってじくじく悩むのは逆効果で、むしろ私が言ったように、

 (せっかく引きこもりになったのだから、もうしばらく引きこもりを続けてみよう)

 と考えて、あまり引きこもりを気にしない方が良いと思います。

 いや、それよりも、引きこもりや不登校を悪いことだと考えると、なんとかして引きこもりをやめねばならぬ、学校に行かねばならぬと考えてしまいます。しかし、学校に行くことがそれほど大事でしょうか。学校に行くことより、もっと大事なことがあるはずです。

 それは、その人がその人らしい人生を生きることです。学校に行けないことを苦にして自殺なんかするより、自分は自分らしい人生を生きればよいと割り切って、引きこもりのままでしっかりと生きればいいのです。何も明るく生きる必要はない。暗くしか生きられない人は、暗くていい。うじうじとした人生、しょぼくれた人生、負け犬的な生き方、なんだっていいのです。私たちの人生は、誰か他人のために生きているのではありません。自分の人生なんだから、自分のために、自分らしく、しっかりと生きるとよい。私は青年に、そのように言って聞かせました。

すべてのものは「ありがたい」

 親はわが子を、大企業に高く買ってもらえる商品にしようとしていませんか。勉強ができる子の方がいい子だというのは、商品価値の物差しです。運動能力の高い子が良いというのも、子供を商品と見ているのです。そういう商品価値を測る物差しを、奴隷の物差しと名付けることができそうです。

 人間を労働力と見るのも、奴隷の物差しでしょう。その奴隷の物差しで測ると、老いや病気は労働力の低下につながり、価値が低くなります。そして定年を迎えると商品価値がゼロになり、粗大ごみとされてしまいます。

 今日本人が持っている物差しは、そんな奴隷の物差しだけだと思います。資本主義社会においては、これはやむを得ないことかもしれません。

 でも、それではいけないのです。わたしたちは、もう一つの物差しを持つべきです。それは、仏さまの物差しです。キリスト教徒であれば、これを神の物差しと呼んでください。人間を奴隷(商品)と見るのではなく、「仏の子」「神の子」と見るのです。したがって、この物差しは良い、悪いを測るものではありません。商品としての価値の大小を測る物差しではないのです。

 そうではなくて、すべてのものを、「ありがたい」と受け取る物差しです。病気になれば、病気をありがたいなあと受け取ります。老人になれば、老いをありがたいと認識します。もちろん、健康もありがたいことだし、若さを保っていられるのもありがたいことです。ともかく、あらゆるものをありがたいことだと受け取るのです。それが仏さまの物差しです。

 わが子が優等生であれば、ありがたいことです。でも、劣等性であっても、その子はそのままで仏の子であり、ありがたいのです。ハンディキャップのある子も、仏様が「この子を頼むね」と預けてくださった子です。だから、ありがたいのです。 

精進とは何か

 仏教の教えは、基本的に、

――少欲知足――

です。欲望を少なくし、足るを知る心を持て!仏教はそう教えています。

 そして、欲望を少なくするために努力するのが、仏教でいう「精進」です。

 だから、精進と努力(頑張ること)とでは、方向性が正反対になっています。その方向性の違いに気づかず、精進といえば頑張ることだと思っている人が多いようです。困ったことです。 

人生は楽しく

 私たちは、楽しい人生を送りたいと思います。そして、楽しい人生を送るための条件をあれこれ考えます。そのためには、相当程度のお金が必要だ。健康でなくてはならない。ある程度の社会的地位が必要だから、それを得るために学歴も必要だし、安定性のある企業に就職せねばならない……。

 そんな風に考え始めると、私たちの毎日の生活が楽しくなります。「明日」のために、「今日」を犠牲にしてしまうのです。必要な学歴を手に入れるために、灰色の受験勉強もせねばならず、将来の出世のために単身赴任も我慢せねばなりません。

 ばかばかしいではありませんか。

 発想の転換をすればいいのです。

 楽しい人生を生きたいと思うのではなしに、楽しく人生を生きたいと思うのです。これもたった一字の違いですが、まさに大きな逆転の発想です。この発想をすれば、きっと肩の荷が下りたような気になり、気持ちが楽になるでしょう。

 たとえば病気になっても、人生を楽しく生きたいと思えば、楽しく生きられるはずです。楽しい人生を生きようとすれば、病気が治らないと不可能に思えます。けれども楽しく生きるのであれば、病人は病人のままでうまく工夫ができるのです。どのように工夫すればいいかは、それぞれの立場で考えるべきですが、どんな人でも工夫次第で楽しく生きることはできます。

 同様に、貧しい人は貧しいままで、人生を楽しく生きることができます。大学受験に落ちた人は、浪人生活をそのまま楽しめばいいのです。浪人なら不幸だと思って生きるより、楽しく浪人生活をした方が良いですよね。

 会社をリストラされた人だって、再就職できるまでは失業中です。同じ失業中であっても、自分は不幸だ、不幸だと思って生きるよりは、楽しく生きた方がいいのではありませんか。いや、実際に、失業中を楽しく生きている人が大勢います。反対に、自分の不幸を嘆き悲しみ、憂鬱そのものに生きている人も、これまたごまんといますが……。

 ともかく、今ある自分は今ある状態でしかないのです。私たちはその状態で、楽しく生きるようにしましょう。それが上手い生き方だと思います。 

金で買えないもの

 歴史家によると、日本も江戸時代の人間は一日に四時間くらいしか働かなかったそうです。食い扶持さえ稼げば、あとはゆったりと生きるのが、昔の時代の日本人のライフスタイルだったようです。

 資本主義社会に生きる我々は、すべてを貨幣価値で考えてしまいます。金さえあれば、何でも手に入ると思ってしまいます。しかし、ゆったりと生きるための時間は金では買えません。それなのに、金を手に入れるために大切な時間を失っています。実に愚かな生き方ではないでしょうか。 

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