ひろさちや著「しあわせになる禅」を読みました

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しあわせになる禅
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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

ひろさちやさんの「しあわせになる禅」を読みました

引用レビューします。

目次

 身体の自由より、精神の自由を選んだ慧可

 私たちは世間に縛られているのです。

 功徳を求めてする行為は、みんな世間の価値判断に縛られています。一流大学に入りたいからこうする、出世したいからああする、健康になりたいからこれをする、そうした行為は、一流大学がいいもの、出世がいいもの、健康がいいものといった物差しで測っているのです。

 その物差しを捨ててごらんなさい。

 肥満が悪い、ダイエットせねばならぬ、といった物差しを捨てると、ものすごく楽になりますよ。インド人なんか、むしろ肥満を誇りにしています。そうすりゃあ、ごはんをおいしくいただける。ダイエットをして、まるで刑務所に入ったような食生活をして、それで楽しいですか?あなたが世間の物差しの奴隷になっている限り、真の幸福は得られません。

奴隷から自由人へ

 金の亡者は、ただ貨幣価値だけを信じています。金があれば幸福だと思い、金がないのは不幸だと思っています。でも、彼は本当の幸福を知りません。ただただ金の奴隷になってあくせくしているだけです。

 奴隷であることに満足しているあなたには、禅はなにも教えてくれないでしょう。

 しかし、世間の奴隷になっていることを惨めに思い、精神の自由を得たいとあなたが思うなら、禅は素晴らしいことを教えてくれます。

 禅とは何か?禅は、自由の精神を鼓舞する教えです。そう思ってこの本を読んでください。

インド人の好きな「ノープロブレム!」

 インド人は五時間や六時間、列車が遅れてもイライラしません。なぜかと言えば、これは私の推測ですが、イライラしたって仕方がないからです。私がイライラしても、それで列車が遅れを取り戻すわけではありません。私のイライラと、列車の遅れは無関係です。

 ならば、イライラするだけ損です。

 で、イライラしないのです。

必要のないことは考えない

 考える必要のないことはいろいろあります。

 と言うより、逆に、私たちは、これは考える必要のある問題か、それとも考える必要のない問題かを、しっかりと考えないといけないのです。

 列車が遅れています。すると、私たちは、ついつい「なぜ遅れているのだ!?」「いつになったら動き出すのか!?」「目的地に何時に着けるのか!?」と考えてしまいます。だが、これは、私たちが考える必要のない問題です。だってこれらの問題は、運転手をはじめ鉄道関係者が考えるべき問題でしょう。我々は彼らに考えさせるために、鉄道運賃を払っているのです。あなたが考える必要はありません。

 だから、「莫妄想」なんです。考える必要のないことは考えるなーーです。

卑屈になるな!

 禅が、「莫妄想ーー余計なことを考えるな」と教えるのは、よくわかります。我々は妄想に悩まされて、未来のことをあれこれ考えはじめると、夜も眠れず、怯えてしまい、卑屈になり、媚びへつらうようになります。

 かつての高度経済成長時代、日本のサラリーマンは会社に媚びへつらっていたのではないでしょうか。高度経済成長時代は、企業の羽振りがいい時代でした。企業は大盤振る舞いをしてくれます。するとサラリーマンは、どうしても飼い犬的心情になります。企業の中にあっての自分を考え、企業の中での自分の未来をあれこれ妄想します。すると、たとえば非人間的な単身赴任でも受け容れざるを得ません。将来を考えるのだから、企業と喧嘩するのが怖くなり、卑屈になって企業に媚びへつらうのです。

宗教を持たない現代日本人の不安

 だが、反面、現在は混迷の時代、不透明な時代です。まったく未来が読めない時代です。

 こういう時代、かえって人間は未来に怯えるかもしれません。

 怯えるのは馬鹿なんです。

  そもそも未来が読めないのは当たり前です。イスラム教とに言わせれば、未来は神の権限下にあります。「インシャーアッラー」です。未来は神の思し召しのままなんです。

 ところが宗教を持たない日本人は、未来が人間の思うままになると考えています。高度経済成長時代というのは、まさに経済を人間の計画のままに動かそうとした時代だったのです。

 だから日本人は、未来が読めないとあわてふためきます。何とかして未来を読もうと必死になります。にもかかわらず未来が読めないものだから、怯えてしまうのです。

 いまこそしっかりと、禅の教えである「莫妄想ーー余計なことを考えるな!」を学ばねばなりません。私はそう思っています。

釈迦が教えた「自灯明・法灯明」

 禅の第三の根本原理……「自灯明ーー他人のことはほっとけ!」

 この「自灯明」は釈迦の言葉です。

 釈迦は入滅に先立って、侍者のアーナンダ(阿難)に次のように遺言されました。

 《アーナンダよ、それ故に、自分自身を灯明とし、自分自身をよりどころとするがよい。他のものに頼ってはいけない。法(真理)を灯明とし、法をよりどころとするがよい。他のものに頼ってはいけない》

 これが、「自灯明・法灯明」と呼ばれるものです。釈迦が入滅されると、この世は闇になります。その闇を歩くのに、あなたがたは自分自身を灯明とし、また私(釈迦)が教えた真理(法)を灯明としなさい、と釈迦は遺言されたのです。

 我々には「法灯明」はよくわかります。釈迦の教えた真理を灯明とするのは、仏教者であれば当然です。ですが、「自灯明」はどうでしょうか。このあやふやな私自身、迷いに迷っている私が灯明になるでしょうか……。

 しかし、仏教において大事なのは、やはり「自灯明」なんです。なぜなら、釈迦が教えた真理だけを灯明にしていたのでは、私たちはその真理(法)の奴隷になってしまいます。いくら高遠な真理であっても、それに縛られているのは奴隷です。あるいは囚人でしょう。囚人には自由はありません。刑務所のなかで囚人は規則に縛られた生活をしています。囚人の生活は模範的です。立派です。規則正しく食事をし、運動をし、睡眠をとり、酒も煙草ものみません。でも、それが理想でしょうか。「法灯明」というのは、その「法灯明」だけでは、まさに囚人の生活になってしまいます。

 だから、釈迦は、「法灯明」の前に「自灯明」を置かれたのです。

 あなたがたは奴隷や囚人になっては駄目だよ。まず自由人でありなさいーー。それが、「自灯明」の意味です。まず自由人であって、それから「法灯明」になるのです。私はそう考えています。

なぜ仏教は「少欲」を説き、「無欲」を説かないか

 私たちは欲望の奴隷になっています。あれが欲しい、これが欲しいと、欲望だらけです。物質的な欲望ばかりでなく、長生きしたい欲望、名誉欲、あるいは健康でいたいという欲望もあります。

 そして、欲望の奴隷になっているくせに、せっかく欲望が叶えられることになっても、私たちは他人のことが気になるのです。他人が自分より得をするのが許せない。自分だけが得をしたい。他人が得をするのは自分の損になる。そう考えてしまうのです。

 まことに屈折した欲望なんです。

 それは当たり前でしょう。なにせ、私たちは奴隷なんです。奴隷というのは、屈折した心理の持ち主です。

 自由人というのは、他人の喜びを素直に喜び、他人の悲しみをともに悲しむことのできる人です。

 奴隷は逆です。奴隷は、他人の悲しみを、表面は悲しんでいるふりをしながら心の中で喜んでいます。他人の喜びを、口では「おめでとう」と言いながら、心の中で悲しんでいます。

 そもそも、仏教は「少欲知足」を教えています。欲を少なくし、足るを知る心を持て、というものです。

 欲望そのものは、それほど悪くありません。人間に欲望がなくなると、ある意味では人間失格です。適度の欲望はむしろ必要です。

 だから、仏教は「無欲になれ!」とは言っていません。あくまでも「少欲」なんです。少なくしろと言っているのです。

学校が本質的に刑務所である歴史的事実

 学校なんてものは刑務所です。そもそも義務教育というのは、フランス革命以後に生まれた制度です。フランス革命で国民国家が誕生して、国民が兵士にならねばならなくなりました。それまでは国王の国家であって、国王は傭兵を雇っていたのです。この傭兵を使って戦争していましたが、国民国家になって国王を追い出してしまったら、自分達で兵隊になって自分達で戦争せねばならなくなった。そのために、戦争の技術を国民に教えるために発足した制度が、義務教育です。

 日本は明治政府になって、国民を兵士にすることになります。

 まあ、戦後になって、兵士教育としての義務教育は表面的にはなくなったかのように思われますが、おっとどっこい、戦後は、

 ーー産業兵士ーー

 の教育が必要になりました。だから、いま、日本の学校教育では、産業兵士の養成につとめています。産業兵士といえばまだ聞こえはいいのですが、もっとあからさまに言えば、

 ーー奴隷の教育ーー

 です。頭を坊主にさせられたり、制服(囚人服)を着させられたり、所持品検査をされたりするのは、奴隷か囚人か帝国主義的軍隊だけです。日本の学校は明らかに刑務所です。

餓鬼とはなにか?

 インドに行く航空機の中で、隣の座席の日本の商社の人が話されていました。日本企業がインドで現地人を雇いますが、インドでは優秀なビジネスマンが数少ない。それ故、優秀な人間はすぐ他社に引き抜かれる。引き抜かれないようにするために、高給にします。

 「すると、インド人はあまり働かなくなるんです。例えば、給料を倍にします。すると、インド人は半分しか働かないんです。仮に日給五千円で二十日働いて十万円得ていた者は、日給が一万円になると、十日しか働かないんです。ひろさん、こういうインド人、どうすれば働くようになりますか……?」

 私に相談されても、私は経営のことなど皆目わかりません。いい知恵なんて思い浮かぶはずがありません。

 それで、私は自分の感想を述べました。

 「なにもインド人を、日本人のようにエコノミックアニマルにしないでいいではありませんか。むしろ、インド人の方が正しいんじゃありませんか……」

 すると、日本の商社マンは、

 〈この国賊め!〉

 といった目付きで私を睨み付けるのです。おっかなかったですね。

 しかし、仏教は、

 ーー少欲知足ーー

 と教えています。欲を少なくし、足るを知る心を持て、というのが釈迦の教えです。

 ところが日本人は、いやこれは現代日本人に限っての話でしょうが、何事にも足るを知らないでいます。現代日本人の合言葉は、

 「もっと、もっと」

 ではないでしょうか。ほとんどの企業において、前年度並みの利益ということは、マイナスと同然である。前年度を上回る利益をあげてこそ、企業は存続できるのだ、といった考え方が常識になっています。きっとお釈迦様に叱られるでしょう。

文庫版のためのあとがき

 でも、私の考えるところでは、世界の数多い宗教に共通している特色はなにかと言えば、どうやら、

 ーー人間というものは、弱くて、愚かで、不完全な生き物であるーー

 と考えているところにあるようです。神と呼ばれるか仏と呼ばれるか、呼称は違っていますが、完全な存在というのは神仏だけで、人間は不完全極まる存在なんです。そう考えるのが宗教の宗教たるゆえんだと思います。

 だが、先に述べたように現代日本人は総じて無宗教です。無宗教だということは、裏を返せば、人間が弱くて、無力で、愚かで、不完全な存在だと思っていないのです。むしろ逆に、人間は賢く、完全な存在でなければならないと思っています。無宗教ということは、そういう信念を持っていることになります。

 だから、世の中全体が不寛容な社会になったのです。

 学校教育において、子供たちは、人間は完全でなければならないと教えられます。完全を目指して努力せよ、と教わるのです。そうすると子供たちは、不完全な人間、身障者のような弱い人間、ちょっとした過ちを犯した人間に対して過酷にして執拗な攻撃を加えます。「あの人はいけない人だ」と、みんなで寄ってたかっていじめるのです。いじめている自分だって不完全な人間なのに、自分に対しては採点基準が甘くなり、自己弁護をします。そして、他人を批難糾弾する。現代日本人は、他人の過ちを赦せない、まことに狭量な人間になってしまいました。

 では、どうすればよいか?

 私は、今こそ仏教者が真の仏教の教えを語るべきだと思います。そして真の仏教の教えとは、完全なる人間になるように努力せよと説くことではありません。そうではなくて、人間はみな弱くて、愚かで、不完全な存在なんだよ。欠点だらけの人間なんだ。だから、みんな互いに赦し合って生きねばならない。あなただって不完全な人間だから、多くの他人に迷惑をかけているのだ。それを他人は赦してくれている。我慢してくれている。だから、あなたも、他人から受ける迷惑をしっかりと耐え忍びなさい。そう教えるのが、真の仏教の教えです。私はそう思います。

しあわせになる禅

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