枡野俊明著「美しい所作が教えてくれる幸せの基本」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

枡野俊明さんの「美しい所作が教えてくれる幸せの基本」を読みました。

引用レビューします。

目次

 はじめに  ーー所作は、「智慧」を築くための礎

 たかが所作、と思うでしょうか。されど所作。

  「所作は、その人のすべてを物語る」といっても過言ではありません。

 その人の思いも、精神状態も、感情も、本意も、日々の生活の様子も、さらには、その人の過ごしてきた人生や、これまでの出会いや経験をも、すべてあらわしてしまうのが「所作」なのです。大袈裟にいっているのではありません。あなたが積み重ねてきたものすべてが、「所作」となって滲み出てしまうことに、どれだけの人が気づいているでしょうか。

生きている実感が得にくい現代生活で、「便利じゃなくて丁寧」に生きる

  「随処に主となれば立処皆真なり」

  随処に主となるというのは、どんなところにいても、正しい所作で「いま」を生きるということです。すると、自分の世界を持った生き方ができる、主人公になれる。そして、そこにはくっきりと真理を映し出した自分がいる、といった意味でしょう。さあ、所作の意味はますます深まったでしょうか。

正しい所作とは、当たり前のことを当たり前に、丁寧におこなうこと

  「ところで、整った所作、正しい所作ってなに?」

  辞書を引けば、ふるまい、おこない、身のこなし……といった解説がなされています。しかし、仏教でいう所作はもっと幅広く、奥深い世界を表現したものだ、といっていいでしょう。曹洞宗大本山永平寺の貫首をつとめられた宮崎奕保禅師の言葉にこんなものがあります。

  「あるべきものが、あるべきところに、あるべきように、ある」

  さすがは禅の言葉!わかるようでさっぱりわからない、という印象ですか?

  この言葉が意味するのは、自然の姿ということです。禅では「余ることなく、欠くることなし」という言い方もしますが、余計なものも、足りないものもなく、満ち足りている姿、それが自然の姿ということ。本来、すべてのものはそういう風に存在している、とするのが禅の考え方です。

  「なすべきときに、なすべきところで、なすべきことを、なすべきように、やる」

  これもまた当たり前なこと。しかし、その当たり前のことのなかに、整った所作、正しい所作があるのです。

「結果」にこだわる以前に、「その瞬間」に全力をかけることが大切

  どんな所作も、何か(結果)のための手段ではないのです。ひとつひとつ、その瞬間に全力を傾けて行うべきもの、それが所作です。頭を下げるなら下げることに、商品の説明をするならそのことに、笑顔で向き合うならその事だけに、心身のすべてを投げ入れる。それでこそ、その時間が美しいものとなり、「縁」の端緒が拓かれるのだと思います。

  「遊戯三昧」という禅語があります。遊びに徹し、遊ぶことだけに没頭しなさい、ということです。遊びは何かのためにするものでもないし、何事かをなす手段でもありません。遊ぶことそれ自体がめあてなのです。所作もそうあるのが理想ですね。

毎晩が、自分のお葬式である  ーー一日の区切りの所作を見つける

  悩みなどを抱え込むと、何日も何日も、それが心を占領してしまって、身動きがとれない、といったことがあるかもしれません。そんな日は、「美しい日」とはいえません。できれば、一日ごとにさらりとその日の悩みに決着をつけるのがいい。

  臨済宗のお坊さんのこんな話を聞いたことがあります。その禅僧は、毎晩、自分のお葬式をしたというのです。それをもってその日は終わり、翌朝は新しい自分として生まれ変わるというわけです。毎朝、新たな命をいただいたら、過去のしがらみやわだかまりから離れて、自由な発想、とらわれない行動ができそうですね。

  お葬式というと、少し抵抗があるかもしれませんから、何かひとつ「区切りの所作」を見つけて、毎晩、実践したらいかがでしょう。寝る前に必ず、その所作を行う。

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