どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
ひろさちやさんの「世間も他人も気にしない」を読みました。
引用レビューします。
あなたがガンになったとき……
古代ギリシアの哲学者ソクラテスは、デルフォイの神殿の入り口に掲げられていた碑の銘、
《汝自身を知れ!》
をもって自己のモットーとしました。そして、そのときソクラテスは、「自己」と「自己のもの」とを峻別したのです。
「自己のもの」とは、自分の肉体だとか財産、地位、肩書き、妻子などです。そのような自己の付属物でしかないものを、「自己」そのものよりも大事にしている世間の人々の愚かさを、ソクラテスは嘲笑したのです。 そんな馬鹿げたことをやめて、「自己」そのものを大事にせよ、と彼は教えました。それが「汝自身を知れ!」の意味です。
請求書の祈りと領収証の祈り
ーー人間は弱くて、愚かで、間違いばっかりする存在なんだーー
という基本理念が流れていることです。この基本理念は、人間の弱さと愚かさを赦します。人間は弱くて、愚かでいいんだよ。そうあたたかく包容してくれているのです。そのあたたかさこそが宗教の本質です。
そうではなくて、人間は完全になるように努力せねばならぬ。自己を高めるように修養すべきだ。そういう努力をしない人間、向上心を失った人間は、人間の屑だ!そんな考えをベースにしているものは宗教ではありません。それはニセモノ宗教なんです。わたしたちは、ホンモノ宗教とニセモノ宗教を、しっかりと判別しておく必要があります。
競争社会こそ地獄である
さて、地獄とはなんなんでしょうか?
実は私は、私たちが住んでいる、ほかならぬ現在の日本という国が地獄だと思っています。地獄は、我々が死んだ後で往く世界ではありません。我々は今地獄に住んでいるのです。
では、なぜ現在の日本が地獄なのでしょうか……?わたしは、
ーー競争原理がなんの歯止めもなしに大手を振って通用している社会は地獄なんだーー
と考えています。逆に言えば、
ーー地獄とは、競争原理がもろに支配している世界であるーー
と定義することができます。そして現在の日本は、競争原理が大手を振って支配しています。社会全体が競争を賛美し、競争心を煽り立てている。どこにも歯止めがありません。誰一人、競争が悪いものだなんて思っていません。だから、日本は地獄なんです。
けれども、私が、競争が悪いものだと言えば、多くの日本人が、なぜ?と疑問に思われるでしょう。競争が悪いものだといったことすらわからないほど、日本の社会は地獄になっているのです。
だって考えてみてください。競争をすれば勝者と敗者が生じます。勝ち組と負け組が出来るのです。勝者はいいにしても、敗者は傷つきます。屈辱を受けます。
「そんなの、あたりまえではないか。負けたのだから、当然屈辱を受ける。悔しければ、勝てるように努力すべきであって、勝者を恨むなんて筋違いだ」
たぶん日本人はそう言うでしょう。でも勝者がそんな風に思えば、そのとき勝者も競争によって傷ついているのです。なぜなら、その人は人間性を失っているからです。
(中略)
要するに日本人は、競争が悪いものだとわかっていないのです。競争を是認すれば、いや競争を無条件に礼讃すれば、その社会が地獄になってしまうことがわからない。だから、日本以外の社会では、無条件に競争を許すことはしません。必ず歯止めをかけるのです。でも日本では、その歯止めがない。歯止めが必要だということがわかっていないのです。歯止めがなければ地獄になるに決まっています。それゆえ、今日本は、地獄になっているのです。
社奴か社畜か?現代のサラリーマン
日本の労働環境そのものが寒々していることが問題です。そもそも西欧や北欧においては、所定の労働時間を越えて労働者を働かせる(残業させる)ことは「悪」であって、残業させる場合は「懲罰的割増賃金」を支払わなければなりません。それが西欧、北欧の労働環境です。ですが、日本には、そんな「懲罰的割増賃金」といった思想はありません。いかに日本の労働環境が劣悪であるか、これだけでもわかるでしょう。
わたしは、日本の労働者は、おしなべて、
ーー奴隷ーー
になっていると思います。いや、労働者ばかりでなく、経営者も奴隷になっています。
奴隷には主人がいます。では、主人は誰でしょう。それは会社、企業です。会社という法人が主人で、人間はその奴隷なんです。したがって、人間は「会社奴隷」です。この会社奴隷を略して社奴といいます。封建社会には「農奴」がいました。領主に隸属し、領主から貸与された土地を耕作し、賦役、貢租の義務を負う農民です。そういう農奴に対して、現在のサラリーマンは「社奴」です。会社に隸属しています。経営者も、オーナー経営者は別にして、サラリーマン経営者は「社奴」ですよ。人間じゃない。
あるいは社畜といった言葉もあります。家に飼われてる動物を家畜といいます。しかし、今の会社人間は、会社に飼われている動物だから「社畜」です。そういう意味です。
だから飼い主である会社(法人)は社畜、社奴にあまり餌を与えたくない。できるだけケチりたいのです。
趣味で貧乏をしていた江戸っ子
いや、馬鹿な人間などというと、インド人などに叱られますね。大部分のインド人は私の見るところ、一日四時間ぐらいしか働きません。いえ、管理職の連中は違いますよ。どこの国でもエグゼクティブ(上級管理職)は猛烈に働きます。いわゆるワーカー(労働者)は、これもどこの国でも働くのが嫌いです。日本人だけです。非管理職のワーカーが猛烈に働いているのは。馬鹿ですね。
世間の奴隷になった現代日本人
奴隷ではなしに、我々は自由でなければならないのです。自由であることによって、わたしたちは、人間らしく生きられるのです。奴隷は人間らしく生きることはできません。
しかしながら、その自由ということは気儘勝手ではありません。それは文字通りに「自分に由る」ことです。言わば主体性ですね。
私たちはなかなか主体性が発揮できません。テレビで放映されると、みんなが行列をつくってその店に並ぶ。私の住んでるマンションの筋向かいの小さなラーメン屋にも、毎日行列ができます。この原稿を執筆している今日は、東京に雪が降っています。今正午です。まさか雪の日には行列はできまいと思って、十四階の窓から見下ろしたところ、店の前の道路に十七人の男女が並んでいました。
〈馬鹿じゃないだろうか!?テレビがうまいと言ったって、自分の舌に合うかどうかわからんじゃないか!?なぜ、自分の舌を信用しないのか!?〉
と思いましたね。つまり彼らは、自由ではなしに世間由になっているのです。世間の価値判断に由っているのです。
だが、これだけ書いたのでは、私は世間の評論家と同類になってしまいます。物事には二面性があります。私は同時に、行列を作っている人々を尊敬します。昨日も妻に言ったのですが、
「彼らはリッチなんだよ。何も高い金を払って高級料亭で食事をすることだけがリッチなんじゃない。本当のリッチは、金があることではなしに、時間のゆとりがあることなんだ。一杯のラーメンをあれだけ待ち時間をかけて食べる。あれこそが本当のリッチなんだよ」
と。私自身は並んでまで食べようなんて思いませんが、ある意味ではリッチに生きている若者は素晴らしいと思いますね。
まあ、それにしても、テレビで紹介されるとみんながそれに飛び付く。そういう日本人には主体性がありません。自由ではなしに、世間由です。
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