小池龍之介著『こだわらない練習 「それ、どうでもいい」という過ごしかた』を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

小池龍之介さんの『こだわらない練習 「それ、どうでもいい」という過ごしかた』を読みました。

引用レビューします。

目次

 はじめに

 こだわれば、肩に力が入り、緊張する。

 こだわらなければ、無駄な力が抜けて、自然体の自分に戻る。

 こだわれば、そのこだわりに合わない「人」も「物」も「現象」も、すべてが"敵"になる。敵に出会うたびに、ストレスが生じる。

 こだわらなければ、世界から"敵"がいなくなる。心が、まろやかに安らいでいる。

 こだわれば、執着に縛られて好みも思考もパターン化し、新しい可能性を閉ざす。

 こだわらなければ、縛られずにいる軽やかな自由と共に、新たな変化に向けて心を開いていられる。 

(中略)

 「私のポリシーだから」と生活の型に意固地にこだわってみたり、何らかの食事法にこだわってみたり、服装のスタイルにこだわってみたり。

 そのどれをとってみても、「これじゃなきゃだめ」と今は思っているだけで、やがて好みや考え方が変わった後になってみれば、「なんであんなのが好きだったんだろう?」と疑問に思う程度のものに、過ぎません。

対等に並び立ちたい、でなく勝者を引きずり降ろしたい「平等精神」

 不平等さを糾弾するのは、贔屓されて気持ちいい者の側ではなくて、贔屓されずに不快に感じる側だということです。

 そう考えてみると、実は不公正さを是正したくなるのは決まって敗者の恨み(ルサンチマン)に由来することが見えてきます。ちなみに、哲学者フリードリヒ・ニーチェは、世の中で道徳として一般に流布している物は、元をただせばこうした弱者、つまり敗者の恨みから生まれているのだ、と喝破しています。

 弱者による恨みがグロテスクな形で発現したものこそが、道徳的に勝者を攻撃・批判することで恨みを晴らそうとする、歪んだ攻撃性だということです。そんな精神性のことをニーチェは、「奴隷道徳」と呼んでこきおろしていますが、そのネーミングセンスの痛快さはお見事と言えるでしょう。

 つまり負けていても正々堂々と、自分が頑張って相手に追いつき、結果として並び立つのでしたら清々しいものなのです。

 それに対して、自分自身の現在置かれている状況を「こんなはずじゃない」と文句ばかり言い、あまつさえ、うまくいっている他人に対して「あいつはズルイ」と、道徳を武器にしてネチネチと攻撃するのは、奴隷根性以外のなにものでもありません。

 奴隷道徳のエッセンスは、自分自身が向上しようとする代わりに、他人が得ている特権を道徳的に、もっともらしく攻撃し、他人を引き下げることにより、ものごとを平等に近づけようとするところにあるように思います。

ルールとは他人に課すものではなく、自分に課すもの

 そもそも、仏道においての戒めは自己のルールであって、自分の心が集中力を高めやすいように、心が荒ぶるような行動や発言を戒めるというのが、その本義です。

 つまり、それは他人に守らせるものではなく、瞑想修行を深めるために必要な、心静かな集中状態を作りやすくするための道具として、守りたい人が自分に課すものなのです。

 「あの人は戒めを守っていないから良くない」と考えたり、私が時として周囲にやってしまうように「とにかく守りなさーい」と勧めるような性質のものではありません。 

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