どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
小池龍之介さんの「『菜根譚』からはじめる つながらない関係」を読みました。
引用レビューします。
己の道をまっとうする
けれども、彼はそのような不遇にあって、へこたれることなく恬淡として、朗らかです。いえ、ときどき、ちょっと拗ねているように見受けられることもありますが、ともあれ、世間における状況というのは、「遇」であっても、「不遇」であっても、つきつめるなら”どちらでもよい”のです。
なぜ、”どちらでもよい”のかと申しますと、自分の生き方が、自らが信ずる道、天地自然の理法に沿ったものであって、それゆえ清らかに満ち足りていられることが実感されているなら、外的な状況がどうであっても、自分を自分で、「OK、これでよし!」と己の生き方をまるごと肯定することが叶うからです。
そのように道に沿った生き方をしていられるならば、仮に一時的に不遇であったとしても、そうしたたやすく移ろう世間的な地位や評価の栄枯盛衰などに乱されることなく、悠然と、超越していられるのです。
何かに対する執着が増すほど、心は自由闊達さを失う
心が病んでしまっている人を治療すべく、抗精神剤の開発は日進月歩の勢いで進歩していると耳にいたします。
けれども私の考えでは、仮にそういった「脳に直接作用して精神の状態を平穏にさせる薬物」が、どれ程洗練され進歩したところで、人間の心のあれこれを抜本的に治療することは不可能であると思われるのです。
どれだけ優秀な薬であっても、特定の物質が脳神経の受容体に作用を及ぼしている間だけは精神が安定しますが、その効果が切れれば元に戻ろうとするでしょう。
さらに問題は、脳が、その外部からの物質が作用してくれることを前提に安定するだけですから、外から同じ物質が入ってくることを頼りとする方向に変化してしまい依存症的になるでしょう。なおかつ、慣れにしたがって効果が薄くなっていくという定めを免れません。
いかがでしょうか。音楽や、お香や、お茶と究極的には同じような事態であると思われませんでしょうか。
よりよいもの、より美しいものと、外界の物物にこだわり執着が増すほど、この心はまるで薬に支配されるがごとく、そのものに縛られ、支配され、自由闊達さを失います。そして、そのこだわりに基づいて、もっとこういうのがいい、ああいうのはダメだのと、余計な考え事が増えます。
あるべき姿勢は、真反対です。
外界のものに、この意識の中心を置かない。
外界に対する「ああだ、こうだ」という思いがすべて抜け落ちてしまうなら、何にも支配されなくなった心が、”自由自在”になります。
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