小池龍之介著「しない生活」を読みました

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小池龍之介さんの「しない生活」を読みました。

引用レビューします。

目次

ものごとに集中するには、頑張りすぎず、だらけすぎず

 仏陀の弟子の一人に、出家前は大富豪の息子だったソーナという青年がいました。甘やかされ贅沢に育てられてきたことを恥じたソーナは、ろくに睡眠もとらず、体がボロボロになるほど、死に物狂いで瞑想修業に打ち込むのですが、修行の境地はいっこうに深まりません。

 「こんなに自分に厳しく頑張っているのに」と落ち込むソーナを察した釈迦は、こんな問いを投げ掛けます。「ソーナよ、君がハープを弾くとして、調弦で硬くしすぎたり緩くしすぎたりしたら、良い音色がするだろうか」と。「いいえ」という答えを待って、「それと同じで、瞑想修行も頑張りすぎても、だらけすぎてもうまくゆかぬもの。君は頑張りすぎの邪精進に陥っている」と指導したのでありました。

 それ以来、ソーナはほどよくリラックスして修業に取り組むようになり、悟りを開いたと言われます。

人は生きている限り「満足しない」という苦を味わう

 『無我相経』を要約しつつ紐解いてみますと、「『私の心よこうなれ、こうなるな』と心に命じて支配することはできない」と説いた後、仏陀は弟子に問いかけます。「そんな心は確固たる信頼のおけるものであるか、無常であり頼るに値しないものであるか?」と。「無常です、先生」の答えを待って、「無常なものは苦であるか、楽であるか?」「苦です、先生」と続きます。

 これはつまり、「思い通りに支配できない」→「勝手に変動する」→「しかし意識には、思い通りでないと嫌だという欲があるため、不満足に陥る」ということです。ええ、よくよく考えてみますと、人生で究極まで満足がいって、「もう他に何もいらない」と完全なる心の平安に至ったことなどないはずで、どんなに良い人といても、どんなに良い境遇を得ても、人は必ず「もっとここをこう変えたい」と感じ、不満足すなわち苦しみに陥ってきたはずです。

 心は「幸せになりたい=満足したい」ように設定されている一方で、自然に変動して(=無常)、思いに従わない(=無我)ゆえに、必ずや不満足に戻る(=一切皆苦)仕組みになっているということ。絶対に叶わぬゴールを目指す不条理なゲームを、生きている限りやらされているようなものですね、トホホー。

 釈迦はこうして、この人生というゲームが絶対クリアできない、言わば無意味な「クソゲー」なのだと見破って、ゲームそのものから半分降りることによってこそ、心の平安を見いだすことを勧めているのです。

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