南直哉著「なぜこんなに生きにくいのか」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

南直哉さんの「なぜこんなに生きにくいのか」を読みました。

引用レビューします。

目次

 「生きたくない」人が抱える困難

 一方、「生きたくない」というのは、自分の価値や、自分が存在する意味そのものが定かに見えなくなってしまっている状態でしょう。

 今の時代は、この「生きたくない」というのと、「生き難い」というのが同じことのようになっている気がします。つまり、何か具体的な困難があるから生き難いというのではなく、むしろ生きたくないという感情が表に現れて、なお生きなければならない困難さのようなものがむき出しになっていることが、生き難さにつながっている気がするのです。

 その根底にあるのが、誰かに認められて、大切に思ってもらいたいのに、そう思ってもらえないという、非常に切なくて孤独な感情ではないでしょうか。「生存の危機(生活の苦しさ)」と「存在の不安(生きていることの切なさ)」は異なるものですが、どちらも苦しく困難な状況にあることに変わりはないでしょう。 

孤独が人を絶望へと追い込む

 様々な相談事を聞いてきた私の経験から言うなら、一つだけはっきりしていることがあります。自殺する人は、孤独です。とても孤独なのです。つながりたくてもつながれない。誰にもわかってもらえない、そういう絶望感で命を断ってしまう。単なる生活苦などでは自殺しません。自分は人から見放されてしまっているという絶望こそ、決定的に苦しいのです。 

自己嫌悪の塊が暴発する時

 私たちの存在は課せられたものです。生まれる前に、「この世に誕生しますか?」「はい、誕生します」といったやり取りがあって、自ら選んでこの世に生まれるわけではありません。周りの意思により、生を享け、誕生するのです。その「課せられた」存在がむき出しになったところで「自己責任」と言われても、責任の取りようがないのです。こうした社会の中で、孤立し、生きる意味を感じなくなる人は増える一方でしょう。 

うわっつらの愛国心でごまかしてはいけない

 最近のナショナリズムの傾向を見ていると、グローバル化した市場経済の荒波で溺れかかっているような人が、そうした思想や言説に惹かれている気がします。特に若い人にその傾向があるように思います。グローバリズムというのは、世界中の人間と競争するということです。そういう中で、普通の能力の人が普通に戦ったら、海外の安い労働力に勝てるわけがありません。

 市場が支配する社会の中で認められることがないのであれば、違うところに、自分を根拠づける何かを求めるのは自然なことでしょう。ナショナリズムが甘い誘惑となりやすいのは努力がいらないからです。日本人であることは「生まれ持ったアイデンティティー」だからです。

 これは強烈な吸引力があるでしょう。つまり国を褒めるということは、そこに生まれた自分を褒めることと一緒です。だからみんな引き寄せられます。

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