玄侑宗久著「無功徳」を読みました

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玄侑宗久さんの「無功徳」を読みました。

引用レビューします。

目次

にこにこするのは世界を大目で見ている証拠

 日本にまだ科学が一般的でなかった江戸時代、黒船でやって来たペリー総督は、日本滞在中に多くの手紙をアメリカの奥さんに書き送っている。

 そこで彼が繰り返し書いたのは、日本人がにこにこしながら仕事をする不思議な民族だということ。そして礼儀正しく、挨拶も丁寧だということ。それから風呂が混浴で驚いたということである。

 多目に見ることがなくなってしまった現代日本はどうだろう。

 仕事はピリピリ、礼儀もなく無愛想、そして混浴など殆どの地域では見られなくなってしまった。

裸に戻って出直す

 私が二十七歳で出家したときも、かなりの悲壮感に浸ったものだ。

 友達とも、もうずっと会えないような気がしたし、この際、基本的に結婚は考えるまいと思った。本やレコードや馴染んだ置物なども、手放すつもりで友達に預けた。うちのお寺に友達三十人ほどが集まってくれ、二日に亘って宴会を開いたのだが、それはもう「最後の晩餐」という感じで盛り上がったのである。

 たしかに道場に入ってみると、自分の所有物は少ない。すべてが自分から離れていった、という気分になる。

 食事用の応量器(持鉢)と呼ばれる重ね椀と箸。経本。剃髪用の剃刀。タオル。石鹸。歯ブラシ。そして修行者としての衣装数着。そのくらいではなかっただろうか。本は持参しなければならないもの二冊。実はその他に私は三冊ほど持参したのだが、そこには読書など個人的に使える時間はなかった。思い出すと、夕方坐禅を始める前、ほんの少しの自由な時間があり、手紙を書いている人などもいたが、だいたいはくたくたに疲れてそんな気にもならない。どうしても読もうと思えば、ただでさえ少ない睡眠時間を削り、夜中にトイレの明かりで読むしかなかった。

 だからしばらくすると、文字も読まない、友達とも会わない、家族とも話さない、ラジオもテレビもない、ナイナイ尽くしになっていることに気づく。

 「裸にて生まれてきたに何不足」という言葉があるが、まさにその爽快な無所有感が、そこでは感じられた。おそらくこれが、出家の第一の功徳だろう。

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