玄侑宗久著「自灯明」を読みました

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自燈明
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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

玄侑宗久さんの「自灯明」を読みました。

これまで読んだ玄侑さんの本より読みやすかったです。

引用レビューします。

目次

「捨てるべき私」と「頼るべき私」

 「自らを灯火とせよ、法を灯火とせよ」というのです。

 「自らを拠り所としなさい」ということの「自ら」とは「我」です。一方、仏教には「無我」という言葉があります。「我がない状態が素晴らしい状態である」ということです。

 それなのに、最後の最後にお釈迦様がおっしゃったのは、

 「我を頼りにしなさい」

でした。では、この「我」と、「無我」の「我」は同じなのでしょうか。パーリ語の仏典を見てみると、両方とも「アッタン」という言葉。これが「私」です。

 「『私』は捨てなさい、そして無我になりなさい」

といっている仏教が、

 「『私』を拠り所としなさい」

といっているわけです。

 「捨てなければならない私」と、「拠り所にできる私」の違いはなんなのか。

 お釈迦様はおそらく一生をかけて、その「捨てるべき私」から、「拠り所とすべき私」へ移っていったのだろうと思うのです。

 我々は普通、「自らを灯明としなさい」という場合、自らというものを「よく調えし自分」といっています。

 「私は捨てなさい。しかし、私を拠り所としなさい」というのでは、ちょっとわかりにくいので、「よく調った、調えられた私」を寄る辺とし、「調っていない私」を捨てなさいという言い方にしているのです。そうしないとちょっと紛らわしいでしょう。

 この「調える」ということが、お釈迦様が長年かけて、三十五歳でお悟りを開かれ、八十歳まで四十五年間説いてこられたことではなかろうかと思うのです。

自分を「調えていく」ということ

 では、どうやって、自分を調えていったらいいのでしょうか。

 何よりもお釈迦様が、繰り返しおっしゃっているのは、「瞑想」です。瞑想することによって、我を調えるというのです。

 「瞑想」と「坐禅」はどう違うのかと思われる方もいると思いますが、瞑想とは頭の中に言葉が浮かんでいない状態です。そんな経験がある方も多いと思いますが、それを意識的に続けていくのが瞑想です。

 私たちの目は、ものを考えるときの入り口になっていることが多い。たとえば、どこか一点を凝視すると色々と考えることができます。ところが、不思議なもので、二ヶ所を同時に見ると、それだけでものが考えられなくなります。

 ちょっと試してみましょう。

 両手を前に出して、両掌のある一ヶ所、右と左の同じ場所を決めてください。そして、その二ヶ所を同時に、そして均等に見るのです。

 どうでしょうか。二ヶ所を均等に見ると意識が分散して、ものが考えられない状態になることがわかります。

 こういう状態をわざわざ作っていこうというのも坐禅の意図のひとつです。

悟るために修行するのではない

 「桃」というのは無邪気だと申しましたが、いってみれば影がありません。苦労を売り物にしないのです。

 梅は苦労を売り物にするところがあるんですね。寒ければ寒いほど、強い香りを放つというでしょう。だから苦労すればするほど、あとでいいことがあると考えているわけでしょう。

 しかし、苦労すればするほど、あとでいいことがあるんだと思っていて、大地震で死んでしまったりするわけです。あの苦労はどうなったのだろう、ということになってしまいます。では、大地震で死ぬということをどう考えればいいのでしょうか。たとえば、キリスト教では、大洪水が来てノアだけが生き残った。これに理屈をつけるわけです。ノアがもっとも信心深かったから生き残ったのだ、というわけです。

 この理屈でいわれると、大地震で死んだ人にはそれなりの理由がある、ということになるでしょう。どこか行いに悪いところがあったんだろうというように、隣のおじいさんは生き残って、うちのおじいちゃんは死んでしまった。うちのおじいちゃんは意地悪だったのだろうか、というように、単純に因果律で考えやすいのです。そういう思考の構造を儒教やキリスト教は持っています。

 しかし、老荘思想は、

 「天地は仁ならず」

という一言で言ってしまいます。あなたがいいことをしていた、悪いことをしていた、そういうことと自然現象は関係ないというのです。死ぬのも生きるのも偶然です。本当は偶然ではなく、無数の縁起の中での出来事なのですが、それは私たちには見えませんから、偶然と思った方がいい。少なくとも、いいことをしていれば自然災害に遭わないなどということはないわけです。

 だから、いつ死ぬかわからないんですよ、どんなに素晴らしいことをやっていても、ということですね。ということは、将来にいいことが起こるために努力するというのでは、報われない可能性があるということです。

 では、どうしたらいいのでしょう。

 将来に「貸し」を残さない。いま、この場で満足してしまうことです。

(中略)

 人に言われてやる、ということは、世の中に生きていると起こります。しかし、言われてイヤイヤやっているのは、絶対体によくないのです。そうではなく、その場から結果としての楽しみも十分にもらってしまうのです。そうすると、のちのち将来に貸しはないですからいつ死んでもいいのではないですか。

 今日は我慢した、というのは、今日を冒涜したようなものです。

 「いい一日だった。このまま死んでもしょうがないな」

と思いながら、毎日枕に頭を持っていく、というところまでいくと大変なものです。

(中略)

 教育して仕立て上げていこう、剪定していこうという「梅」の発想と、そのまま受け容れて認めよう、家風を認めようという「桃」の発想と、両方が必要なのです。

 桃一辺倒では社会生活はうまくいきません。梅も必要です。

 しかし、人が幸せになるのは梅ではないのです。「桃的」になったときです。笑ったとき、無邪気になれたときに、人は幸せを感じるのです。

 これから桃を見たら、そういうことを思い出しながら笑っていただければ幸いです。

自燈明

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