有馬頼底著「力を抜いて生きる」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

有馬頼底さんの「力を抜いて生きる」を読みました。

有馬頼底さんの「力を抜いて生きる」読み終わりました。久しぶりに付箋貼りまくりながら読みました。これは大変ですよ。引用レビューします。

名前でググってみると結構生臭い感じのお坊さんなんですね。

本は読みやすくて面白かったんですけどね。

引用レビューします。

目次

まえがき

 この頃の世相を見ていていつも思うのは、どうしてみなさん、そんなに力みかえっているんだろうということです。力むから、争いも起きますし、うまくいくはずのものも、うまくいかなくなります。争いが起きれば、「何くそ」とまた力む。そうすると、またうまくいかなくなる。まったく悪循環です。

 禅のほうに「喫茶去」という言葉があります。「くだらない議論はもうやめにして、まあ、お茶でも飲もうじゃないか」という意味ですが、このへんでいっぺん、お茶でも飲みながら、力みかえった肩の力を抜いたらどうかと思います。禅には、そのための智慧がぎっしり詰まってます。

(中略)

 力を抜くにはどうしたらいいか。そのためには、まず持っているものを全部吐き出すことです。持っているものとは、なにも物質的なものだけではありません。とらわれの心、執着心、欲望、そういうものすべてです。後生大事に抱え込んでいるものを、思い切ってばっと手放してしまえば、精神的に実に楽になります。そして、心が空っぽになれば、「無一物中無尽蔵」という言葉があるように、逆に無限に豊かなものが心のなかに入ってくるのです。

きれいさっぱりと捨ててしまう

 「解脱」という言葉がありますが「胸に一物、背中に荷物」といいますが、私たちは常に何か「一物」を持っています。それを後生大事に抱え込んで、なかなかそれを放したがりません。せっかくつかんだものを失ってなるものか、と必死にしがみついている。地位、名誉、お金、みんなそうです。そういうものを、いっぺん全部手放してしまいなさい、そうすれば心が晴れ晴れするだろう、というのが、趙州禅師の「放下着」です。

 瓶のなかにいっぱい詰まったお金を手でとろうとするとき、欲張ってたくさん握り込めば、手がつかえてしまう。握ったお金を放せば、手はすーっと出ます。それと同じことです。、「解」は解くということ、「脱」は脱ぐということ。つまり、私たちは、地位や名誉や財産といったものでがんじがらめになって、身動きがとれなくなっているのです。そういう、自分をがんじがらめに縛るものをすっぱりと脱ぎ捨てて自由になること、それが「解脱」ということなのです。

「無」になってこそ見えてくるものがある

 禅の思想を一言で言いますと、「無」ということになります。「無」。この一字が実に容易ならざるものなのです。たった一文字なのですが、逆に一番難しいとすら言えます。

 無とは、単に「何もない」ということではありません。むしろ逆で、無であるということは、その背後に豊かなものがあるということなのです。

 例えばコップのなかに水がいっぱい入っていれば、もうそれ以上水は入りません。しかしコップが空であれば、水はたくさん入る。あるいはまた、私たちの頭が雑念でいっぱいになっていたら、人の話を素直に聞くことなどできません。しかし、無心であれば、スーッと入ってくる。つまり、「無」というのは何もないのではなく、むしろ「ある」ということなのです。

「行雲流水」の心で力を抜く

 唐時代の名高い禅僧、臨済禅師は、「仏に遭えば仏を殺し、祖に遭えば祖を殺し、父母に遭えば父母を殺し、親属に遭えば親属を殺す」と言っています。仏を殺す、とは穏やかではありませんが、もしも修行の妨げとなるようなら、たとえ仏や祖師であっても、親兄弟であろうとも、バッサリと切り捨てるぐらいの覚悟がなければならないということなのです。

 臨済禅師は、人間は本来「仏」なのであって、ただ煩悩のために迷いの世界にいるのだ、と言っています。煩悩、執着、自我、それが人間を迷わせているのです。ですから、人間が本来持っている「仏性」に目覚めるためには、私たちを縛り付けているすべての束縛から自由にならなければなりません。仏や祖師もその例外ではないのです。仏にとらわれ、執着してしまったら、それはもう束縛以外の何ものでもありません。

 「何もない」ということは「何でもある」ということ

 物質的なものには限界があります。仮に私が茶の湯の茶碗を十個持っているとしましょう。しかしそれも、百個茶碗を持っている人から見れば、たった十個かということになります。その百個持っている人も、千個持っている人から見たら、たった百個かとなります。そう考えていくと、本当にキリがないのです。むしろ、何も持っていなければ、競う対象がないわけで、比べようがないわけですから、これは絶対に強いのです。

 繰り返しますが、ものには限度、限界というものがあります。茶碗を百個集めたところで、それ以上持っている人に比べたら少ないのですから、むしろ、たったひとつの茶碗であっても、それで満足している人には敵わない。

 大切なことは、もっと多くのものを所有したいという欲望や執着心を持たないこと、最低限のものでよしとすること、今あるもので満足することです。あれも欲しい、これも欲しいという気持ちから解放されて、本当にさっぱりとした、いわゆる無一物の境地になることができれば、それはとりもなおさず、世界中のものが全部自分のものだというのと同じことになる。実に豊かな、満ち足りた心になれるわけです。それが、「無一物中無尽蔵」ということです。

「もっと、もっと」が自分を苦しめる

 釈尊は、「足ることを知るものは、たとえ貧困であっても心が満たされており、安らかである。しかし、足ることを知らないものは、どんなに裕福であっても心が満たされず、常に不安である」と言っています。人間は、いまこそ、この「知足」の精神を取り戻すべきだと思います。

(中略)

 逆に、これでいい、これで十分だという謙虚な気持ちがあれば、どんな境遇にあっても、どんなに所有しているものが少なくても、心は平安なのです。

(中略)

 力を抜いて生きる、とは、今あるもので満足する生き方、多くを望まない生き方、物質的な豊かさよりも心の平安を選ぶ生き方です。心が平安でなかったら、どんなに贅沢な暮らしをしても、どんなに多くの財宝を手に入れても、決して幸福にはなれないでしょう。そのことを肝に命じるべきです。

役に立たないことの価値

 兼好法師は、「よき細工は、少し鈍き刀を使う」と言っています。優れた指物師は、少し鈍い刀を使う、ということです。これは非常に含蓄のある言葉です。切れすぎる刀よりも、少し鈍いくらいの刀の方が、味のある作品を作ることができる。人間も、あまりに切れすぎる人間よりも、少し鈍いくらいの人間の方が、味があって面白いのではないでしょうか。

 世の中、役に立つものばかり、切れ味の鋭いものばかりだったら、お互いに傷つけあってしまいます。役に立たないもの、一見無駄に見えるもの、そういうものの価値を見直す必要があると私は思っています。

「一大事」とは今日只今のこと

 正受老人の教えに「一日暮らし」というのがあります。それはどんな教えかと言いますと、

 「自分は『一日暮らし』ということを工夫するようになってから、実に精神が健やかになって、病気ひとつしなくなった。なぜなら、どんなに苦しいことがあっても、今日一日だけの辛抱と思えば耐えることができるし、どんなに楽しいことがあっても、今日一日だけのことと思えば、楽しみに溺れることもない。一日一日と思えば、退屈することもないし、一日一日を大切に過ごすことができれば、百年も千年も少しも長くない。一大事というのは、今日只今の心である。それを疎かにして明日はないのである」

 この教えで大切なのは、最後の「一大事というのは、今日只今の心である」ということです。私たちは、往々にして過去にこだわり、明日に希望を繋いで生きています。しかし、過ぎてしまった過去のことをいつまでも悔やんだところで始まりませんし、明日こそいいことがあるに違いない、今度こそうまくやろうと思っても、必ずそうなるという保証はありません。「明日こそは」という気持ちは、今日できなかったことの言い訳にしか過ぎないのです。

妄想を断ち切れ

 昔、蒙古襲来のとき、執権北条時宗は、鎌倉円覚寺の無学祖元の元へ馳せ参じ、「一大事到来」と告げました。そして、この危急存亡の時に当たっての心構えを教えていただきたいと迫りました。

 その時無学祖元が時宗に与えたのが、「莫妄想」、妄想すること莫れ、という言葉でした。つまり、どうしたら蒙古軍に勝てるだろうかとか、負けたらどうしようだとか、あれこれ迷ったり混乱してはならない、と時宗を叱ったのです。言葉を変えれば、まだ起こりもしないことを心配したり恐れたりしないで、ただ目の前の事実を処理することだけに専念せよ、と無学は言ったのでした。

(中略)

 この執着心が妄想を生むのです。勝ちたい勝ちたいという思いが、勝ちに対する執着心を生み、冷静な判断をできなくさせます。美しいものを手に入れたいという執着心、欲望が自分を見失わせ、周りのものを見えなくさせるのです。

 こうした貧富、愛憎、善悪、美醜といった様々な対立があるがために、人間の心はそのどちらかに執着し、迷い、悩み、苦しむわけです。ですから、この際、その対立した二つの根源をきれいさっぱりと断ち切ってしまえ、というのが「莫妄想」です。

 それでは、どうすればその根源を断ち切ることができるでしょうか。それには、心のなかにある雑念、こだわり、執着心、分別心(物を二つに分けて考えること)、そういうものを全部吐き出してしまうこと、心の中を空っぽにしてしまうことです。

(中略)

 つまらないことをあれこれ考えるから、悩みが生じ、対立が生まれます。妄想を断ち切ろう断ち切ろうと思っている間は、妄想は断ち切れないのです。一つのことに徹することで、妄想が起こる暇を与えないようにするわけです。ひたすら一つのこと、今すべきことに徹していれば、いつしか妄想はどこかへいってしまいます。それが、「莫妄想」の本当の有り様です。

「命懸け」で生きれば道は開ける

 私が管長を務める相国寺派は臨済宗に属しますが、宗祖は中国の臨済禅師という方です。この臨済禅師の言行をまとめたものが『臨済録』で、私どもにとっては、まさに法典といってもいいものです。

 この『臨済録』に、「随処に主となれば、立処皆真なり」という有名な言葉があります。

 「随処に主となる」の「随処」は、いたるところ、どこでも、という意味です。「主となる」とは、私たち一人一人が主体性を持つということ、誰にも、何物にも左右されない確固たる自己を持つということです。ですから、いつ、どこにあっても、その場その場で精一杯生きるなら、いつでも、どこでも、そこが真実の場となる、という意味です。

 いつ、どこであっても、と言っても、そこが素晴らしいところばかりとは限りません。居心地のいいところで、自分を見失わずにいるのは簡単です。難しいのは、たとえどんな逆境にあっても、常に自分自身であり続けることです。

 私たちは、ややもすると、周囲に影響されて、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、ふらふら、うろうろしがちです。また、病気になったり、精神的なショックを受けると、すぐ自分を見失ってしまいます。常に自分自身であり続けるということは、口で言うほど簡単ではありません。

 では、「随処で主であり続ける」にはどうしたらいいのでしょうか。

 先にも言いましたが、いつでも、どこでも、精一杯生きることです。ここはいやだ、とか、あそこはいやだ、ではなく、与えられた場所で一所懸命がんばること、文字通り命懸けで生きることです。どんな逆境の時にあっても、その場その場になりきって、精一杯生きさえすれば、いつでも、どこでも、そこが「真実の場」となるのです。

 「転ずる力」で逆境を抜け出す

 逆境にあるとき、人は自分自身のことが客観的に見られないものです。たとえば、会社で左遷されたようなとき、まるで人間としての自分の価値が全否定されたように思ってしまいます。客観的に考えれば、そんなものは、ある一つの会社の、一つの人事にすぎませんし、一歩会社を出れば、誰もそんな人事のことなど知らないでしょうし、関心もないでしょう。それが、まるで世界中の人間が自分の左遷のことを知り、自分のことを指差して嘲笑しているような気にすらなってしまうのです。

 では、自分自身のことを客観的に見るには、どうしたらよいでしょうか。目を転じてみるのです。たとえば、左遷の例で言えば、会社のなかにいる自分から、どんどん視点を上に上げていってみるのです。

 すると、まず自分が属する会社が小さく見えてきます。さらに上へ視点をあげると、自分の会社だけでなく、そんな会社がいっぱい集まったところが見えてきます。そういう風にして、どんどん視点を上げていけば、やがては国が、そして地球が見えてきます。

 そこまでいけば、自分が属する会社など、いかにちっぽけなものかがわかるでしょう。そんな小さな会社のなかであくせくして、一喜一憂していることがバカらしくなってくるはずです。

 要は、いつまでも一つのところにとどまって、くよくよ悩んでいないで、パッと目を転じ、別な世界に飛び込んでしまうことです。今自分がいる世界がすべてではなく、もっと別な世界があるんだということ。そして、そこでは別な見方、別な生き方が可能なのだということを知ることです。

釈尊の「一夜賢者の教え」に学ぶ

 過ぎ去ったことを追うな

 まだ来てもいないものを思うな

 過去、それはすでに捨て去られたもの

 未来、それはまだ到っていないもの

 そうであれば、ただ現在のことをありのままに観察し

 動揺することなく、それをしっかりと見極め、実践せよ

 ただ、今日なすべきことを熱心に行え

 だれが、明日死のあることを知ろう

 だれも、死神の大軍と遇わずにいることはできない

 よくよくこれらのことを見極めた者は

 心を込めて、昼夜怠ることなく実践するだろう

 このような人を「一夜賢者」といい

 また、心静まれる者という

 ここで大切なのは、「ただ現在のことをありのままに観察し、動揺することなく、それをしっかりと見極め、実践せよ」という言葉です。

 過ぎ去ってしまって取り返しのつかないことをあれこれ悔やんだり、まだ来てもいない未来のことをあれこれ心配しているうちに、私たちの限られた人生の時間はどんどんなくなっていくでしょう。私たちにできることは、「いま」なすべきことをしっかりとなすことであり、それしかできません。

 私たちが使うことができる時間は、過去の時間でもなく、未来の時間でもなく、「いま」の時間しかありません。その「いま」の時間を無駄に使ってしまったら、その時間は二度と戻ってこないのです。たった一度きりの人生を無駄に使い果たしてしまうことほど、愚かな、もったいないことはありません。

好事不如無(こうじも なきにはしかず)

 「好事」、すなわちどんな良いことでも、ないに越したことはない、という意味です。普通に考えれば、これは逆です。いいことなら、いくらあってもいい、というのが普通の考え方です。それを、どんな「好事」もなきにはしかずというのです。これはどういうことでしょうか。

 なにかとても良いことがあったとします。ああ、よかった、で終わればいいのですが、人間には欲望や執着心というものがあって、その良かったことがどうしても忘れられなくなってしまうのです。

(中略)

 私たち禅者が最終的に目指さなければならない「悟り」の境地ですら、それに執着し、とらわれてしまったら、もはや「好事」とは言えません。むしろ修行の邪魔にすらなります。そんな悟りなら、ないほうがよいのです。

 一度良いことがあると、また良いことがあるのではないかと期待する。期待があるから、その期待が裏切られると腹が立ったり、絶望したりするわけです。もともと期待するようなものなど何もないのです。ですから、なにか素晴らしいことに巡り合ったら、ああ、よかったと、それでスパッと切り捨てて、そこから離れてしまう。そういう転じていく境地というものを常々養っておかなければならないのです。

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