どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。
植西聰さんの「余計なことはやめてみる」を読みました。
引用レビューします。
「大丈夫。心配しない。どうにかなる」で生きていく
室町時代の臨済宗の禅僧に、一休という人物がいます。
その一休について、次のようなエピソードがあります。
一休が亡くなる際の話です。
一休は弟子たちを集めて、一通の遺書を授けました。
ただし、一休は「わしが死んでもすぐにこの遺書を開封してはならない。何か困った事態が起こったときに、この遺書を開けて読みなさい。この遺書に問題の解決策を書いておいた」と言い残しました。
一休が亡くなって何年か後です。ある重大な問題が発生しました。
弟子たちは、今こそ一休が残した遺書を開封するときだと考えました。
さて、一休の遺書を開封してみると、そこに書かれてあったのは、
「大丈夫。心配するな。どうにかなる」という三つの言葉でした。
何か困った事態に見舞われたとき、もっとも愚かなことは、大慌てしてしまうことです。「どうしよう」と大騒ぎしてしまうことです。
禅の修行者であるならば、困った状態であるときでも、「心安らか」でいなければならないのです。
そして、そのための心得が、「どうにかなる」と楽観的な気持ちを忘れないということなのです。
「物質的な豊かさ」を選ぶか、「精神的な豊かさ」を選ぶか
禅の言葉に、「壺中、日月長し」というものがあります。「壺中」とは、「人が暮らす家」を示しています。
つまり、「壺の中のように、狭い家」ということです。
この言葉は、「壺の中のように狭い家であっても、そこには悠々とした時間が流れている」と言っているのです。
さらにいえば、「広い豪邸を手に入れるために、あくせく働くよりも、たとえ狭い家であっても、のんびりと、悠々とした気持ちで生きていく方がいい」ということです。
それが、禅が理想とする生き方なのです。
禅は物質的な豊かさを求めません。禅が求めるのは、精神的な豊かさなのです。
時に、物質的な豊かさを求めるために、精神的な豊かさを失ってしまう人もいます。
もし精神的な豊かさを失ってしまうようだったら、物質的な豊かさを求める必要はないと、禅は考えるのです。あくせく働くことも必要ないのです。
豊かな物質的な生活を実現するために、お金儲けにあくせくすることもしないのです。
むしろ、そのようなことは何もせずに、豊かな気持ちで悠々と生きていく方がいいと、禅は考えるのです。
「今、やるべきこと」をひとつずつ解決していく
「十年後、二十年後、私の人生はどうなっているだろう」といった漠然とした不安に心を悩ませている人がいます。
将来の人生について思いを巡らすことは悪いことではありません。しかし、先々のことを心配するあまり、「今日やるべきこと」が疎かになってしまうようでは、将来へ向かって幸せな人生を築いていくことなどできなくなってしまいます。
禅の言葉に、「現成公案」というものがあります。「現成」とは、「今目の前にある具体的なこと」を表します。「公案」とは、「解決すべき問題」のことです。
「今目の前にある具体的な問題」とは、たとえば、今日する座禅に心を集中するということです。いま、雑念に心を惑わされている状態であるならば、その雑念を取り払うことに集中するということです。
そのように「目の前にある具体的な問題」を一つ一つ着実にこなしていくことで、結果的に将来悟りの境地に達することができるのです。
「後悔も心配も、意味のない妄想だ」と知る
過去に自分がしてしまったことを後悔する気持ちも、将来のことについてあれこれ心配する気持ちも、禅では「妄想」と考えます。
人は過去に自分がしてしまったことについて、「あんなことをしなければよかった。違う行動をしていれば、自分は今頃、もっと幸福な生活をしていられたのに」と後悔します。しかし、人は、過去に舞い戻って人生をやり直すことなどできません。それは不可能なことなのです。
ですから、過去の行動を後悔して、「自分は今頃、もっと幸福だったはず」と考えることも、全く意味がないことなのです。
また、将来のことについて、「もしこういう結果になってしまったら、どうしよう。自分の人生は終わりだ」などと心配することも現実的ではありません。
将来はどうなるか、誰にもわからないからです。
人間は神様のように、将来を見通すことなどできません。ですから、将来のことをあれこれ心配することも、意味がないのです。
過去を後悔したり、将来を心配するよりも、今自分がやらなければならないことに全力を傾けることです。
そこから「莫妄想」という禅語が生まれました。「莫」とは、「してはいけない」という意味を表しています。つまり、「後悔や心配することをやめて、今を精一杯生きることが大切だ」と言っているのです。
おわりに
余計な欲を捨てると、人はもっと楽に生きていけます。
欲を追い求めて、余計なことをしなくなるからです。
他人に好かれたいという気持ちを捨て去ると、人はもっと自然体で生きていけます。
好かれるために無理をしなくなるからです。
人よりも偉くなりたい、偉くなって威張りたい、という思いを捨てると、人はもっと安らかに生きていけます。
他人との勢力争いに巻き込まれなくてすむからです。
人間の行動というものは、すべて「心」が作り出します。
それが禅の考え方です。
ですから余計なことをせずに生きていくためには、まず「心」から余計なものを捨て去ることが大切になってきます。
つまり「欲」や「好かれたいという気持ち」「偉くなって威張りたい、という気持ち」を、心から捨てることです。
心の中にそのような「余計な思い」があるから、しなくてもいいことをします。その結果として、苦しまなくてもいいことに苦しむことになるのです。
余計な思いが余計な行動を生み出し、そしてその余計な行動が苦しみを生み出すという一連の流れを、仏教では業といいます。
この業の流れのもっとも源にあるのが、その人の「心」です。
禅では、この業の源泉である心を正すことを重要視します。
心を清浄な状態にしておけば、様々ないい面が生じてくるのです。
生きることが楽になり、自然体で生きていけるようになり、心に安らぎがもたらされるのです。
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