井上暉堂著「生きるのがラクになる忘れ方の秘訣」を読みました

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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

井上暉堂さんの「生きるのがラクになる忘れ方の秘訣」を読みました。

引用レビューします。

目次

はじめに

 うつ病は、「真面目で仕事熱心」「完璧主義で几帳面」な人がかかりやすいと言われています。「真面目で仕事熱心」「完璧主義で几帳面」な人は、かつては立派な人として評価されていました。ところが、最近ではその評価が変わってきているようです。

 うつ病の人が毎年増えているということは、日本人には「真面目で完璧主義」の人が近年になっても変わらず多い、ということなのでしょう。「真面目で完璧主義」の人は、ひとつのことにこだわる傾向があります。こうだと決めたら、それをできるだけ守ろうとします。そのために周囲の人と摩擦が起きて、ストレスがたまっていくのです。

 「真面目で完璧主義」は、決して間違っているわけではありません。しかし、うつ病になってしまうほどにストレスがたまるとしたら、それは行きすぎなので、なんとか変えなければいけないでしょう。そのためには、守ろうとするこだわりを極力なくすこと、こだわっている気持ちを捨てることが必要になってきます。

(中略)

 自殺を決心するまでには、それぞれに深い悩みや苦しみを抱えていた長い時間があったに違いありません。しかし、抱えていた悩みや苦しみは、死ななければならないほど、本当に重大なものだったのでしょうか。人間死んでしまったら、すべて終わりです。その前で踏みとどまって、気持ちを切り替えてもう一度新たに生き直してみる。それがどうしてできなかったのでしょうか。それは、きっと抱えている悩みや苦しみに執着しすぎていたからです。

 どういう悩みや苦しみを抱えているにせよ、見方を変えて、その悩みや苦しみから一度離れてみませんか。もしかすると、自分一人で勝手に重大だと思い込んでいるだけかもしれないのです。

 抱えている悩みや苦しみから離れるということは、その悩みや苦しみを一度「忘れてみる」ということです。悩みや苦しみに執着する心を、一度捨てるのです。そうすると、新しい心の世界が開けてくるかもしれません。

過去と未来を断ち切れ

 中国唐の時代の無業禅師は「莫妄想」(妄想するなかれ)と言いました。

 過去への執着や未来への不安が、妄想を生んでいるのです。終わってしまった過去のことは、今さら変えることはできません。未来のことは、誰にもわかりません。

 「過去を悔やんだり未来に怯えるのは妄想にすぎない、だからそんな妄想はするな。過去のことは忘れ、未来のことはなるようにしかならないと開き直る。そして、今の自分にできることに全力を注げ」

 無業禅師はそのように教えています。

既成概念を常識を超え取り払う

 公案は、こんな風に行われます。

 朝晩二回の、カーン、カーンという喚鐘を合図に、雲水は老師の部屋に駆けつけ、一人ずつ「独参」(入室=老師との一対一での法戦)して、老師に与えられた公案、つまり試験問題に取り組みます。公案に対して、「見解」を出します。これは、問題に対して自分なりの答えを明らかにすることです。

 公案がなぜ難解かというと、一七0一ある公案のすべてが非論理的で、常識的な考えがまったく通用しないからです。たとえば、

「曲がった木をまっすぐ見てみよ」

「北に向かって南を見てみろ」

「3000メートルの深海から赤フンを濡らさずに上がってこられるか」

「富士山頂の穴の水を飲み干してみよ」

 といったようなもので、普通に考えれば、「それは無理でしょう」「わかりません」と答えるしかないような問題ばかりです。

 しかも、学校のテストのようにひとつの答えがあるわけではなく、論理を超えた答えをぶつけないと、いつまで経っても突破できません。場合によっては、ひとつの問題を解くのに数年かかることもあります。

 なかでも最大の難関と言えば、雲水の誰もが最初に与えられる問題(「無字の公案」と呼ばれる)です。

「犬にも仏性はあるか?」

 たったこれだけの問いですが、雲水たちはこれを解くために悪戦苦闘します。

 私もこの公案にはかなり苦しみました。

 たとえば、「仏性はすべてのものに存在するので、犬にもあります」と答えたとしましょう。これはごく常識的な答え方で、あまりに普通すぎます。すると、老師に鈴を鳴らされ、禅問答はここで終了、即退室となります。

 見解の鑑別を受け、答えが正解なら老師は頷きますが、不正解なら鈴がチリンチリンと鳴らされます。鈴がなったら、雲水は一切の言動を中止し、ただちに合掌礼拝して部屋を出る、という決まりがあるのです。

 もちろん、単純に「犬には仏性はありません」という答え方もダメです。

 問答を終わらせないためには、論理を超えた答えをぶつけるしかありません。では、いったいどう答えれば関門を突破できるのでしょうか。

 公案の狙いは、訳のわからぬ問いをぶつけて、有無の分別のつかない境涯に導き、その根本にある既成の概念を取り払うことです。

 「有る」とか「無い」とか、相対する価値観にとらわれた答えを言っている限り、「こいつは、まだまだ」と判断され、何度でも落第の鈴が鳴らされるのです。

 私も何度も何度も追い出されました。老師は、決して答えのヒントはくれません。ただひとつ言われたことは、「追い詰めて追い詰めて追い詰めて、八方塞がりになったときに出てくるものが大切なのだ」ということです。「生きているか死んでいるかもわからない状態まで追い詰めたときに、有無の境界を超えた答えが出てくる」と言うのです。

 有無の境界を超えた答えとは、有とか無とか相対する価値観を根こそぎ取り払ったところの「無」、謂わば「一切皆空」(そのものとひとつになること)の境涯のことです。この境涯は、いくら理屈で考えようとしても理解できません。論理を超えたものなので、言葉では表現できないからです。感覚で、体験で感じるしかありません。

 私は、この「無字の公案」を解くのに、四人の老師おのおのと問答して、すべての老師から透過(公案を自分のものにすること)するのに八年かかりました。問答は論理を超えているので、私はいきなり老師にバシッとビンタを張ることもしました。「このくそ坊主」と怒鳴り付けもしました。

 公案の問答は一対一の真剣勝負であり、命の戦いだからです。私も必死だったので、老師の応対に「俺がこれだけやって来たのに、お前は全然わかってないじゃないか」と思わず私の手が出て、怒鳴り声が出てしまったのです。

 反対に老師からビンタや足蹴りのお返しをされたり、棒打ちを食らったり、大喝を浴びせられたりしたことが、何度もありました。それは、「もう少しだ」という私への叱咤激励なのです。

 とにかく迷ってはいけないのです。一挙手一投足に答えがあるからです。要は自分をさらけ出し、すべての対象に即座になりきることです。

 老師にビンタを張りたくなったら、迷わずすぐにビンタを張る。逆に老師からお返しのビンタが来たら、「なぜ来たのか」などとは考えずに、ビンタをビンタとして、痛みを痛みとして、迷わずそのまま全身で受け止める。

 禅は、このような体験実践を通して、「無」の境涯を体得します。「すべての対象になりきる」、こうした「無」の境涯から生まれてくるものが、まさに「忘力」なのです。

死んだらどこへいくのか

 ではもうひとつ、公案に取り組んでみましょう。

 「生死を脱得すれば便ち去処を知る。四大分離して甚れの処に向かってか去る」

 脱得の脱は離脱、得は悟得のことです。全体の意味としては、「生死を超克し得た者であれば、死んだらどこへ行くか知っているはずだ。死んだら一体どこへ行くのか?」ということです。

(中略)

 一休宗純の歌に「いま死んだ  どこへも行かぬ  ここにおる  たずねはするな  ものは言わぬぞ」とあります。素晴らしい境涯ですが、禅答としてはもっと徹底したものでなければいけません。

 ものを言う言わぬの別もないのです。「死」はいつやってくるかわかりません。今この瞬間に、突然やって来るかもしれないのです。その時は死後を考える暇などはないでしょう。ですから、死後とは、生きている今そのまま、立っているのなら立ったまま、座っているなら座ったまま、「ここにいる」ことです。「死」もない、「死後」もない、生死を超克した「無」の境涯です。

 「死んだら一体どこへ行くのか?」

 「ここに居る」

 先の禅答にそう答えることができるかどうか。もし答えることができるならば、あなたは「忘力」を身に付けたことになるでしょう。

使わないことがもったいない

 では、禅の修行もしてない、ボクシングの経験もない、ごく普通の一般の人が「忘力」を身に付けるにはどうしたらいいのでしょうか。

 毎日の生活のなかで誰にでも実行できる、簡単な工夫をご紹介しましょう。あなたの周囲を見回してみてください。家の中に不用品がたくさんありませんか。押し入れの奥にしまい込んだまま、隠れているものはありませんか。

 忘れられないことが多く、こだわりにとらわれている人は、家の中も不用品で溢れていることが多いのです。これらの不用品は、忘れられない記憶と同様に、あなたを過去に縛り付ける存在です。まず、それらを処分することから始めましょう。

不必要なものは罪悪感の表れ

 それほど極端でなくとも、家の中には要らないものが多いのではないでしょうか。常に気分が落ち込むと言う方は、要らないものが多数ないか家の中を見回してみてください。あなたが今必要としていないものは、何か心の隙間を埋め合わせようと、「所有したい」という欲に任せて買い込み、溜め込んだものです。心が満たされず、餓えている状態をそれらの「使われないもの」が象徴しているのです。

 使われないものを手放せない理由は、自分の正しさを証明するため、肯定するためです。不必要であることを認めず、そのことに気がつくことすらできないのです。そんな不要なものに囲まれている状態は、知らず知らずのうちに心を落ち込ませます。

 なぜなら、それらはあなたが抱いている罪悪感の現れだからです。「不要なものをなぜ買ってしまったのだろう」「お金を無駄遣いした」「バカなことをした」、そんな罪悪感に包まれて生活していては、気分が晴れることは決してないでしょう。

 不必要なものをひとつでも多く手放してください。いつか使おうと思っていたものは、ほとんど使う機会は訪れないでしょう。修理して使おうと思っていた電化製品は、いつまでも修理に出さないでしょう。バザーに出す、またはリサイクル品として引き取ってもらえるところがあれば、それが理想的な方法かもしれませんが、その機会をうかがっているうちに、手放すことができないようであれば、思い切って処分することです。

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