有馬頼底著「禅 壁を破る智慧」を読みました

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禅 壁を破る智慧
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どうも、メンヘラナマポおじさん(@MenhealerOjisan)です。

有馬頼底さんの「禅  壁を破る智慧」を読みました。

引用レビューします。

目次

はじめに

 逆境を乗り越えていく上でもっとも重要なことは、「囚われない」ということである。禅は、自分すらにも囚われない、すなわち、自分を捨てることを徹底して実践する。

 逆境においても同様、自分を捨てるということが最終的には求められる。思い切って捨てることで、新しい自分がそこから生まれてくるのである。

 だが、自分を含めて様々なものに対する囚われをなくすことは、逆境おいてだけ重要なのではない。普段の日常においても、「囚われない」ことは大切だ。そのことがよりよい日常を作り、ひいては日常が逆境になだれ込みそうになるのを防ぐのである。

 その意味で逆境も平時も同じ心境、同じ行動をとっていればいいのである。つまり、逆境も平時も生きるという根本においては何も変わらないということである。

捨てることで無尽蔵に入ってくる

 こうして雲水たちに施しをすることを〈喜捨〉ともいう。では喜んで捨てるものとは何か。それは執着心という、なにものかに囚われた心を捨てるのである。エイヤッとお金や物に対する執着を断ち切って〈喜捨〉する。囚われた不自由な心がそこでパッと捨てられるから喜ばしいのである。

 禅仏教が目指す最終地点は、精神が何者にも囚われない絶対自由の境地である。そもそも人は裸で生まれ、裸で死んでいく。これを禅では〈本来無一物〉という。

 また無一物は何も持たないという意味ではない。禅の〈無一物中無尽蔵〉という言葉は、何もないところにこそ、すべてはあるんだよということである。

 すべてがあるとはどういうことなのか。それは何者にも囚われない自由な心には、尽きることのない豊かさがあるということだ。

 私のものとあなたのものの間に区別はなく、所有という概念から生まれる争いも憎しみも嫉妬も何もない。そんな境地にたゆたうのびやかな精神は、どこまでも自由で限りない喜びをともなっている。〈無一物中無尽蔵〉が指し示しているのはそういう世界なのである。

「非常識な力」をバネにして突破口を開く

 約400万年前に、四足歩行から二本足で立った猿人たちは、それまでの四本足という常識を打ち破った。四十万年前に火の使用を始めた原人たちは、火は自分達で操ることはできないもの、というそれまでの常識を捨て、我が物とすることに成功した。一万年前に農業を始めた人類は、それまでの狩猟文明の常識をひっくり返した。

 近いところで言えば、日本では江戸から明治に変わる狭間で非常に大きな常識の変革があり、太平洋戦争の後には皇国思想という常識が捨てられ、欧米の合理的精神や文化が庶民の生活を根底から変えた。

 それまで常識だったことは、このように大きな発明や、異文化との出会いによって、いとも簡単に覆ってしまう。常識というのはそうやって常に変わっていくもので、絶対的なものではない。

 常識に安住していると、常識に問題があってもそれに気づかないことがまま有る。空気のように存在しているので、おかしなものであってもわからなかったりするのである。

 だが、その時代ごとに大きな力を持つ常識というのは、多数派や権力を持っているものに都合良くできているものが多い。それゆえ、いい加減だったり、間違っている常識というのは、いつの時代にも数限りなく有るのだ。

 そんな間違いだらけの常識に足を掬われないようにするには、常識を疑う力、すなわち「非常識な力」を養っておくことである。

 大切なのは、常識に囚われない自分の軸を、どれだけしっかり作れるかである。常識を疑い、「非常識な力」を養うことが、自分の軸をしっかり作る元となるのである。

禅 壁を破る智慧

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